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January 2006
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生まれついてのリーダー
IAAPA 会長という新たなポストを通して、リーダーシップとこの業界についてさらに多くを学ぶことを期待するRob Norris
(記事:Tim O’Brien )

国際アミューズメントパーク・アトラクション協会( IAAPA )の 2006 年度会長を務める Rob Norris は、アミューズメントパーク業界で働いて 50 年になる。まだ 5 歳のときに、親が経営するパークの売店が並ぶ通りのゴミ拾いに出された。それから半世紀を経た今日もなお、パークの通りを端から端まで歩きながらゴミを拾うのが、彼の日課のようになっている。

ニューヨーク州ロチェスターにある中規模の遊園地、シーブリーズパークで長年にわたって積み重ねてきた幅広い経歴と、世界各地のパークを旅して回った豊富な経験によって培われた彼のユニークな視点は、 IAAPA の役員会に貴重な財産をもたらすだろうと彼自身が感じている。

Norris は、 1970 年代始めから兄弟姉妹 3 人、従兄弟ひとりを合わせた合計 5 人でシーブリーズパークを所有し、専業で経営している。パークの家族宿舎で生活をともにしながら成長した彼らは、高校時代からずっとパークで働くことを考えてきたという。 Norris はこう振り返る。「パークの所有経営者の子弟というのは、傍目に見るほど刺激的で楽しいものではありません。当時、パークは困難な時代にあったので、地方のアミューズメントパークの経営者家族の一員でいることは、必ずしも私たちにとってプラスではありませんでした。」

仕事とともに成長する

パークが閉園している冬季は夏と同じくらい楽しかった、と Norris は回想する。「ボートを保管している場所でよくアイススケートをしたものです。天気さえよければ、売店が並ぶ通りでゴーカートを走らせました。最高のレース場でしたね。私たちは、同じチャンスや問題を経験しながら、一緒に育ったのです。」

未来の経営者たちは全員大学に進学し、それからパークに戻って働いた。少しずつ仕事を引き継いだ彼らは、年とともに影響力を持つようになった。「私たちのグループはとても楽観的でした」と Norris は言う。つまり、彼らは、自分たちの思い通りにできれば、パークを立て直すことができると信じていた。彼らは、新しいアイディアや斬新なアプローチ、それに若者らしい情熱を持ち込んだ。「私たちはあらゆるリスクをすべて受け入れ、すべての情熱をかけて、大量の汗と労働時間をパークにつぎ込みました」と彼は言う。

そのリスクを取る必要があった理由は、彼によると、パークを再建するか、そうでなければ、それを解体して湖の見えるマンションでも造るしかなかったからだ。「その後 15 年もの間、私たちは自分たちの決定が正しかったかどうかを悩み続けました」と彼は付け加える。

パークの施設の状態に重点を置きながら、チケットの団体販売と企業のピクニックを中心にした売り込みが功を奏して、パークの経営は回復した。経営に着手してから 30 年目という節目の年を迎えたこの 5 人のチームは、心に誇れるものを感じている。「慎ましやかに育った私たちは、けっして多額の借金を抱えることはありませんでした。いつも互いに、借金というものは必ず返さなければならないものだと注意し合っていましたから」と彼は笑いながら言う。「これほど地味にやってこなければ、もっと早く立ち直せたかもしれませんが。」

「それほど衝突することもなく、これほどうまく一緒に働くことができたのは、今でも信じられません。会議中は意見が大きく異なることもありましたが、一歩外に出れば、私たちは仲の良い幸せな家族でした」と Norris は言う。

このパークが今日あるのも、このようなある種のリーダーシップと団結の賜物だと Norris は言う。彼は 1986 年以降ずっと社長を務めてきたが、他の 4 人と同様に、パークのほぼすべての分野で仕事をしてきた。彼は言う。「私たちはそれぞれ、専門分野と責任を持っていました。しかし、私たち全員がパークのあらゆる部分に精通していたのです。」 Norris は建築屋である。彼は大学の土木工学科を卒業したが、その経験が建築のプロセスで役に立っただけでなく、彼はそこであらゆる問題解決の状況を分析的に捉えることを学んだ。

Norris はパークを代表して地元の地域社会の福祉プログラムに参加しているほか、過去 15 年間にわたってニューヨークで業界を代表する重要なロビイストとしての役割を担ってきた。

ペンシルバニア州ウェストミフリンにあるケニーウッドパークの Andy Quinn は、パーク経営者として 4 代目だが、 5 代目の経営者である Norris とは旧知の間柄だ。 Norris を高く評価する彼は、『ファンワールド』誌にこう語った。「 Rob とはかれこれ 20 年以上の付き合いになりますが、とてもすばらしい人間です。小規模なパークに対する彼の視点は、この協会にとって重要な意味があります。私たちはときどき、小さな草の根的枠組みに立ち返って見る必要があります。私たちの誰にとっても、そこがすべての出発点だからです。そこにこそ、この業界のすべてがあります。」

IAAPA

Norris は、家族と一緒にシカゴのシャーマンハウスで開催された初期のパークコンベンションに連れて行かれたことは覚えているが、それが何年のことだったかは記憶にないという。「それについて、いろいろと覚えてはいるのですが、私の記憶にいちばん強く残っている印象は、現在に比べると信じられないほど規模が小さかったということです。その当時にあのような経験ができたことは、今の私にとっては本当に幸運です。今日も業界活動を続けている人で、あの当時の記憶を持っている人はそれほど多くはありませんから。」

成人になったNorris がIAAPA の年次総会に初めて出席したのは 1974 年のことだったが、それ以来、彼は一度も参加を欠かしたことはない。妹 Anne の友人であるDeborah VerHulst と結婚した彼は、そのせいで年次総会への出席が妨げられそうになったことがある。彼は笑ってこう言う。「私たちが結婚したのは 1976 年度総会の 1 週間前だったので、 4 日間の新婚旅行を何とか日程に押し込んだ私は、そのあとすぐに彼女を残して(単身で)開催地のニューオーリンズに向かいました。」

1986 年以降、IAAPA の各委員会で働き始めたNorris は、役員を 2 期務めた後、 2002 年には第 3 副会長に就任した。彼がIAAPA に貢献することができたのも、彼の家族が「こうしたいという私の決定を支持してくれ、私がIAAPA の仕事をしている間は、私をよく助けてくれることができたからです」と彼は言う。

2002 年にIAAPA のトップに加わるまでに、Norris は米国内だけでなく世界中にある他所のパークを訪問することの大切さを認識した。当時の出張を振り返って彼は言う。「他所のパークを訪問した後は、頭の中にアイディアがたくさん浮かんできました。シーブリーズがアミューズメントパークとしてより優れたものになるのに、これらのアイディアが役に立ったことは間違いありません。(スウェーデンの)リセベリとか(デンマークの)チボリガーデンなどヨーロッパにあるパークの多くは、施設を拡張できる敷地面積が限られています。私たちのパークもまた同じ問題を抱えています。これらのパークから、私は、アットホームな雰囲気を醸し出し、小さな敷地面積で多数の観客を扱うことのできる機能的なパークを造る方法を学んだのです。」

世界最大のアミューズメント業界団体の会長になった感想を聞いてみたところ、 Norris はこう答えた。「とても名誉なことに思いますが、同時に不安も感じないわけではありません。これまで何年にもわたってこの組織を率いてきたすばらしい人々がいますし、私が会長としてその仲間に加わることは、本当に畏れ多いことであると同時に、驚くべき名誉でもあります。」

Norris は、この業界にいる多くの友人の意見を取り込むとともに、業界に対するよりグローバルな視点を取り入れたいと考えている。彼は言う。「私は世界でも最も驚嘆に値する人々と会ってきましたし、これからさらに多くの人と出会えるのを楽しみにしています。この先数年かけて、さらにいろいろな場所に出張し、もっと見聞を広めるつもりです。そこには、型にはまった公式のようなものはありません。誰にも、語るべき自分自身のストーリーがあるものです。そのストーリーを話してもらう必要があり、また IAAPA もそれに耳を傾ける必要があります。私は、人の話をよく聞くつもりです。」

これまでリーダーシップスキルを学んできた彼は、 IAAPA における自分の責務から引き続き学んでいくことが、これからの仕事の役に立つと思っている。彼は言う。「 IAAPA は、リーダーとして率いる団体としては巨大な組織であり、その展示会は大規模に運営されています。この舵取り役を果たすのは、リーダーとしての私の能力が試される良い機会でもあります。そこからさらに多くのことを学べるものと期待しています。」

彼の同僚もまた、この考えに賛同している。パレスエンタテインメントとニューヨーク州リバーヘッドにあるスプリッシュスプラッシュウォーターパークの Chip Cleary は言う。「この世に IAAPA 会長になるべき運命を負い、その任にふさわしく、そうなるべくして造られた人間がいるとしたら、それは Rob Norris をおいて他にはありません。彼と知り合ってから 18 年になりますが、私の目でじかに見たところ、人生のすべてをこのビジネスに捧げてきた彼は、この業界が持つ不思議な力を今もなおこよなく愛しています。」

Norris の友人、同僚、 IAAPA 幹部の誰もが彼の持つリーダーシップスキルをよく知っており、今こそ「 IAAPA の他のすべての会員が、彼の知識と存在を活かすときだ」と Cleary は付け加えた。

小規模ビジネスの視点に加えて、 Norris は、メーカーや供給業者を一人称の視点で理解したことを仕事に活かそうとしている。「私自身が記憶する限り、いつも何らかの形で彼らと一緒に仕事をしてきました。この業界に製品やサービスを提供している彼らは、私たちパーク会員が運営する施設だけでなく、業界の展示会においても欠くことのできない存在です。このセグメントは、 IAAPA というマシンの中の重要な歯車のひとつなのです。」

将来の計画 

彼には何か検討すべき課題はあるのだろうか。これについて彼はこう言う。「私なら、検討課題という言葉は使いません。私の目標は単純明瞭です。それは、戦略計画を実行するために役員会を率い、進んでいる方向が正しいかどうか確かめることです。私は、その方向を最適化するためにお役に立ちたいだけです。」

Norris は、この協会が「今のところは良好な状態にある」が、それは「このビジネス全体が持つ力を証明している」という。「当協会の展示会もまた非常に大きな強みを持っていますが、このことは、そこらのすべての展示会についていえることではありません。」

全体として、 2005 年はこの業界にとって良い一年であった。この数年間は「大きな連鎖」がアミューズメントパーク業界全体を浮揚させたことで、全体の水準を引き上げてきた、と彼は指摘する。「小規模なパークは、大手にやり方に追随しています。しかし、ローカルまたは地域ベースでは、私たちのような規模のパークでも高い品質を確立しています」と彼は言う。

もし何か問題があるとすれば、 2006 年は多忙で個人的な時間が十分に取れない Norris のウィンドサーフィンの腕がにぶってしまうことくらいだろう。彼は 1980 年代に、ストレス解消のためのレクリエーションとして、オンタリオ湖でこの趣味を始めた。現在はその湖の岸辺に居を構える彼は、その場所こそ、彼の情熱にはもってこいだという。「裏口から歩いて出ると、そこはもう湖です。とても便利です」と彼は言う。彼にはゴルフとヨットという二つの趣味もあるが、取り立ててアミューズメントパークの経営に役立つことはないそうだ。「どちらをやるにしても、まとまった時間を 4 時間も取ることができません」と彼は言う。

「ウィンドサーフィンなら、窓からちょっと外を見やって、僅かな時間があって風さえ吹いていれば、数分もあれば出かけられます。誰かに電話をかけて来てもらう必要もないし、待たなくてもすぐにできます。ただ外に出ればいいのですから」と彼は言う。

2006 年の任期が終わったあとも、 Norris はアミューズメントパークやテーマパークの環境やその取り組みをずっと楽しみ続けるつもりだ。どこか若々しさを感じさせるこの 55 歳の紳士は言う。「私は自分のライフスタイルを心から楽しんでいます。子どもたちにしじゅう囲まれている若々しい環境のせいでしょう。そのおかげで、いつまでも若さを保てます。」


神様、モグラ様!
ボブズスペースレーサーの「モグラたたき」が十億ドル規模のエンタテイメントの怪物に育つまで
(記事: Jeremy Schoolfield )

ハンマーを握り、穴から飛び出してくる小さな生き物をたたくというゲームのやり方は、誰にでも簡単に理解できる。いちばんたくさんたたいた人が勝ちだ。

フロリダにあるボブズスペースレーサー社( BSR )が開発した「モグラたたき」( Whac-A-Mole )は、簡単であるがゆえに天才的なアミューズメントゲームである。このゲームが誕生してからすでに 30 年近くが経過しているが、世界中の繁華街やゲームセンターでは今もなお、あらゆる世代の人々が、あのずる賢い小さな連中を全力で打ちまくっている姿を目にする。

「モグラ」の人気は今も変わらない。 BSR では、他のメーカーと提携してタイアップ商品を売り出し続けており、その人気はいっそう高まる勢いを見せている。

ペンシルベニア州ハーシーにあるハーシーパークでゲーム担当役員を務める Janice Kingsley は言う。「このゲームはどの世代にも受けますし、本当に楽しく遊ぶことができます。来園者は互いに競い合うゲームが好きで、モグラたたきをやっている人々の間ではつねに笑いが絶えません。本当に楽しいゲームです。」

このゲームが業界でも伝説的な存在になれたのは、誰でも簡単に楽しめるというその単純な本質のおかげである。

目からウロコ

BSR で最高財務責任者( CFO )を務める Michael Lane によると、「モグラたたき」の起源は 1970 年代半ばまで遡る。移動遊園地を運営していた顧客が当時、うまく動かすことができなかったゲームのアイディアをこのメーカーに持ち込んだことが、製品開発のきっかけとなった。プロジェクトを引き継いだ BSR は、顧客からの注文を受けて、 1970 年代半ばに初の「モグラたたき」を製作した。この作品をたいへん気に入った BSR は、このゲームを正規の商品に格上げし、 1977 年にはパーク向けモデルを、また 1980 年にはアーケード(ゲームセンター)向けバージョンをそれぞれ追加した。

これらの各バージョンの間では、ゲームの本質こそ共通していたものの、その流通形態は大きく異なっていた。移動遊園地用に作られたこのゲームの原型は、トレーラーに乗せて町から町へと運ばれ、最高得点を上げて賞をもらうことを期待する複数のプレーヤーが同時にプレーして競い合った。パーク向けのモデルもこれと似ていたが、一定の場所に常設するように作られていた。そして最後に登場したアーケード向けのシングルユニットモデルは、ピザタイムシアター(現チャンク・ E ・チーズ)でデビューした。これは、プレーヤーがひとりで機械に向かって遊ぶか、または、その日それまでに記録された最高得点と競うものだった。

「モグラたたき」が成功した原因は、それまで BSR が見過ごしていたアーケードというまったく新しい市場分野に目を向けたことにある、と Lane は考えている。このゲームはその後、 BSR が成功を収めた製品すべての「ビジネスモデルとなった」という。 Lane によると、「モグラたたき」は今では世界の約 90 ヶ国にある 3,000 のアーケード、 240 のアミューズメントパーク、 500 の移動遊園地で使われているという。 BSR のゲーム部門はいまや年商 1 億ドルで、「モグラたたき」が開発されてから合計で 15 億ドルもの収益を生み出した。

モグラたちは、中東からオーストラリア、ロシアに至る世界中でたたかれていて、「モグラたたきというゲームは、今や世界的なアイテムになった」と彼は言う。「単一の製品としては、当社で『モグラたたき』ほど大きな成功を収めた製品は他にありません。ウォーターゲームのほうが数は売れていますが、あれには様々な機種があります。姿かたちをほとんど変えることなくこれだけ長続きしているゲームは、『モグラたたき』の他にはほとんど例がありません。」

「それも当然」

まさに彼の言うとおりで、筐体や表示にわずかな変更を加えた以外、「モグラたたき」はこれまで 25 年もの間、ほとんどその姿を変えることなく続いてきた。「多くの世代」に幅広く受けるところが、このゲームが成功し続けた最大の理由だと Lane は言う(結局のところ、ハンマーで数匹のモグラをたたくのに、何か特別な技術がいるわけでもない)。

「モグラたたき」のマルチプレーヤー版 2 台(モグラとヘビの 2 種類)を設置しているハーシーパークの Kingsley は言う。「このゲームはとても人気があります。このパークには全部で 8 台の競争ゲームがありますが、『モグラたたき』はいつも一番ですね。」

「それも当然のことでしょう。遊んで楽しいし、わかりやすいし、どの世代の人でも楽しめますから」と Lane は言う。

しかし、「モグラたたき」を取り巻く世界の状況は、大きく変わっている。

Lane の記憶によると、それは 1990 年代後半のことだった。 BSR の財産権を担当していた弁護士が、オハイオからフロリダまで飛んできて、同社が金の成る木をすぐ目の前にしていることに気づかせようとした。彼によると、 BSR のほうは、せいぜい書類の作成に頭を悩ませる程度の話だろうと考え、冗談半分で 1999 年に初のライセンス契約を締結した。ところが、「小切手が次々と転がり込んできたを見た私たちは、思わず『神様、モグラ様!』と叫んだ」という。

過去 6 年間、「モグラたたき」は BSR の利益を生み出す一大マシンに進化した。数々のテレビ番組や映画にも登場したこのゲームは、今では大衆文化の用語集にもその名が載っている。これも「モグラたたき」というネーミングとそれが表しているイメージのおかげだ、と Lane は言う。

「この名前は、良い意味でも悪い意味でも、よく物のたとえに使われます。今では、日常的に使われる言葉の一部としてすっかり定着しています」と彼は言う。「もしこれを何か別の違った名前、たとえば『モグラ追跡』( Mole Chase )にしていたら、はたしてこれと同じインパクトがあったかどうかわかりません。」

このゲームが開発された時期を振り返って Lane が語ったところよると、 BSR では当時、この製品に使う動物としてプレーリードッグ( prairie dog )やホリネズミ( gopher )などいくつか検討したという。しかし、装置の表示にうまく収めるには、モグラ( mole )が短くてしっくりした。名称のそれ以外の部分については、「ゲームのアクションに基づいた名前にしようと考えていたので、説明的な言葉を使う必要がありました」と彼は言う。「地面の穴から何かが出てきて、それを打ち返さなければならない様子を視覚的に表現する。それを表すには、どういう言葉を使えばよいか。そこで、アクションだけでなく音も表せる whack (ピシャリと打つ)という言葉が自然と思われました。文字数の都合から最後の k の字は削り、形を整えました。それで、ちょうど響きの良い言葉になりました。」

その言葉の響きは、やがて市場の隅々から聞こえてくることになる。 1999 年に初のライセンス契約で成功を収めて以来、 BSR は「モグラたたき」帝国の拡大に向けて邁進してきた。とりわけ大きな収益を上げたのはハズブロ社との契約で、そこから生まれた家庭用卓上型ゲームは大人気を呼んだ。さらに現在では、テレビに差し込んですぐに使えるタイプのビデオゲームも出ている(このライセンスはその後更新され、 2005 年夏まで延長された)。エンタテインメント業界への展開はますます熱を帯び、 BSR は 2004 年に漫画っぽい Mole (モグラ)のロゴを新たにデザインして、ブランドのナンバーワンとしての地位を不動のものにした。

Lane は言う。「家庭で『モグラたたき』を楽しむ消費者は、アミューズメントパークに行ったときにも同じゲームを探すものです。アミューズメントパークで遊ぶ人は、玩具店でもそれを見つけようとします。つまり、この両者の間には、相乗的な効果があるのです。」

ハズブロとは別にアクティビジョン社との間に締結したライセンス契約によって、「モグラたたき」のビデオゲームは、任天堂のゲームボーイアドバンス、 DS 、ゲームキューブ、ならびにソニーのプレイステーション 2 で商品化された。一方、カメラ認識技術とゲームを組み合わせた双方向型無線テレビゲームを開発したトイクエスト社は、「モグラたたき」を楽しみながら同時に運動することができる商品を開発している。しかし、これらの新製品にしても、 BSR が最も成功した製品でさらに大きな市場を目指す活動の中では、ほんの氷山の一角に過ぎない、と Lane は言う。製品の高級志向を強める BSR では、カードゲームやテレビ番組または映画などの市場も視野に入れている(すでに複数の制作会社が打診してきたが、まだ話し合いは進んでいない)。

Lane は言う。「『モグラたたき』とその成功によって、当社は製品のブランド力の活かし方や、様々なプラットフォームでこの認識を形成する方法について、新たな視点を持つことができました。それは、ひとつのビジネスの中にまたひとつのビジネス体系を構築するようなものです。私自身、「モグラたたき」のライセンス事業に多くの時間を費やしてきましたが、今では小さいながらも( BSR 社内に)独自のライセンス部門を持っています。それは、当社の仕事の中でかなり大きな部分を占めていますが、その傾向は今後も続くでしょう。もうひとつ別の「モグラたたき」との出会いは、本当にすばらしいものになるでしょう。」


水面下 6 フィート
ハリケーン「カトリーナ」と「リタ」が南部の観光業を直撃。復興は可能か?
(記事: Jessica Downey )

フロリダ州のオーランドからルイジアナ州のニューオーリンズまで 16 時間もかけてたどり着いた Bill Sims は、自然の猛威が作り出した光景に目を見張った。アラバマ州、ミシシッピ州を経由してようやくルイジアナ州に入った彼がそこで初めて目にしたのは、近年で最も大きな被害をもたらした暴風雨による巨大な破壊の爪痕だった。 Sims が最後に着いたニューオーリンズでは、町の一部が識別できないほどひどく破壊されていた。フロリダ育ちの彼はこう言う。「ニューオーリンズに着いた私は、カナルストリートまで車を走らせました。そこはまるで戦場のようでした。車はひっくり返り、ホテルの窓は吹き飛ばされていました。シェラトンホテルの近くにあるレンガ造りの建物は、まるで本当に爆破されたように見えました。私は生まれてからずっとフロリダに住んでいますが、カトリーナで目の当たりにしたような破壊は、それまで見たことがありませんでした。」

カトリーナの時速 175 マイル(時速約 281 キロメートル)という暴風と堤防を打ち砕いた豪雨が通り過ぎてから 2 週間後に Sims がニューオーリンズに来たのは、ブルボンストリートから数ブロックも離れていないフレンチクォーターにある彼の『リプリーのビリーブ・イット・オア・ノット』ミュージアムの損害額を評価するためであった。空中を浮遊する有害物質から身を守るためにマスクをつけた彼は、ミュージアムをざっと調べて回った。彼は言う。「略奪はまったくありませんでしたが、浸水やカビによる被害がかなりありました。全体としては幸運なほうでした。損害の大きな部分はむしろ、市場のほうにあります。これは、私の生涯でも最悪の天災です。」

多くの被災地域の住民と企業の中には、 1969 年にハリケーン「カミール」を経験した人々もいるが、その彼らでさえも、今回の被害には一様に悲鳴の声を上げている。被害総額が 500 億ドル以上に達し、少なくとも 1,000 人以上が死亡したこの災害では、ニューオーリンズのほかビロクシ(ミシシッピ州)、ガルフポート(同)、モービル(アラバマ州)など観光業に大きく依存する諸都市の産業が深く傷つき、多数の問題が未解決のまま残されている。カトリーナは、イギリス全土の面積に匹敵する約 9 万平方マイル(約 23 万 3 千平方キロメートル)の建造物に徹底的な構造破壊をもたらした。

この記事を書くにあたって取材したすべての相手に共通していることだが、ニューオーリンズがいつかは元に戻ると信じている Sims も、いつ、またどの程度まで復興できるかについては疑問に感じている。この地域の観光産業にとって大きな課題が差し迫っている、と彼は考えている。「観光アトラクションは、早急な支援を必要としています」と彼は言う。

カトリーナは、沿岸にある多数の施設と観光アトラクションを屈服させた。ビロクシの遊覧船をベースにしたカジノビジネスは壊滅した。その中には、グランドオープニングから数日しか経っていないハードロックホテルとカジノビロクシも含まれていた。ハリケーンカトリーナは、ベイセントルイス、ビロクシ、ガルフポートにあった 12 のカジノの一部を損壊、または全壊させ、数千人ものカジノ従業員の仕事を奪い、ビロクシ市だけで少なくとも一日 50 万ドルの税収を失わせた。

ニューオーリンズのダウンタウンから北東約 12 マイル(約 19 キロメートル)の深南部にあるアミューズメントパーク「シックスフラッグズ・ニューオーリンズ」の乗り物は、堤防の決壊によって水面下約 12 フィート(約 3.6 メートル)に水没した。しかし、シックスフラッグズ社の幹部は、ゆくゆくは再建できるという見通しを持っている。このパークを 2002 年に買収したシックスフラッグズの広報担当者、 Debbie Nauser は言う。「不動産に損害が発生した万一の場合に、パークの再建費用としてニューオーリンズ市の産業開発基金から融資が受けられることになっています。当社では今のところ、それを実行に移せるものと期待しています。」

この災害では、至るところで生命が失われた。ニューオーリンズのアメリカ・オードゥボン水族館では、職員が強制退去させられた後に非常用発電機が故障し、 9 フィート(約 2.7 メートル)もあるサメ数匹を含めて、この施設で飼育されていた 1 万匹の魚の大部分が死んだ。テキサス州ガルヴェストンにあるムーディーガーデンズ水族館の動物飼育マネージャー、 Greg Whittaker は言う。「生物学者の立場からすると、飼育動物がそのように朽ち果てていくのを見過ごすのは想像もできません。」このムーディーガーデンズ水族館では、 300 ポンド(約 136 キログラム)もあるウミガメ「キングミダス」をアメリカ水族館から、また 5 頭のトドをオードゥボン動物園から引き取った。ウミガメのほうは 10 月中旬に元の水族館に戻された(なお、記事原稿の締切間際に、トドのほうもクリスマス前には戻すことができるだろうという話を彼から聞いた)。動物園にもいくらか被害はあったものの、カトリーナが原因で死んだ動物は、ごく僅かな数に留まった。動物園は予定を変更して再開に漕ぎつけ、感謝祭直後の週末には 66,000 人が来園した。この動物園は、 2 月末までは引き続き、週末だけ営業する予定である。ミシシッピ川沿いのカナルストリートの端にある水族館は、飼育動物の多くをダラスワールド水族館、モンテレー湾水族館、ヒューストン動物園、ならびにムーディーガーデンズ水族館に送った。同水族館は、この夏にも営業を再開できる見通しである。

人員配置の面では、オードゥボン研究所全体で従業員 700 人をレイオフした人員削減の影響によって、職員総出で仕事を分担しなければならなくなった。オードゥボン研究所で広報担当役員を務める Melissa Lee は言う。「この施設全体から集めたスタッフ全員で飲み物を販売し、スナックバーで料理を作り、ホットドッグを売り、ゴミを回収するなどして対応しています。 CEO (最高経営責任者)から動物飼育員、経営幹部から営業社員に至るまで、全員が何か役に立とうとして仕事をしています。」

この地域全体に及んだ巨大な破壊の中にあって、明るいニュースもいくつかあった。アメリカ水族館は、取り扱いが難しいタツノオトシゴや大きなウミガメを含めて、多数の動物を救うことができた。生き延びた 2 匹のラッコと 19 羽のペンギンは、カリフォルニア州のモンテレー湾水族館に空輸され、水族館が再開されるまで、そこで預かってもらえることになった。

12 月上旬には、ウミガメのほか猛禽類も水族館に戻った。ラッコとペンギンは今もなおカリフォルニアに、また数種の魚とタツノオトシゴ類はダラスワールド水族館に預けられたままだが、これらもこの春には水族館に戻せる見通しだと Lee は言う。 Lee によると、同水族館はこのほか、モール・オブ・アメリカにあるアンダーウォーターアドベンチャーズ水族館とミシシッピ州のレストランから、数種のサメと魚の寄贈を受けた。

カトリーナの来襲前後にかけて、マスメディアの関心はそれによる被害に集中していたが、比較的軽い損害だけでこの嵐に耐えたアトラクションも多数あった。ナショナル・ D デイ・ミュージアムでマーケティング担当上級役員を務める Clem Goldberger は言う。「ニューオーリンズにある文化施設の多くは、とても幸運でした。ビジネスセンター地区では、洪水の被害はほとんどありませんでした。屋根も壊れていませんし、風による被害もありませんでした。多少の破壊と略奪行為はあったものの、その被害もギフトショップに限られました。何をもってしても替えることのできない歴史遺物は、いずれも無傷でした。」

排水と復旧に向けて

カトリーナの被害を受けた町の中でもとりわけ、ニューオーリンズでは観光業の損失が最も大きかった。ハリケーンが来襲する前、同地の宿泊業や観光業がようやく(同時多発テロが起きた) 2001 年 9 月 11 日以前の水準に戻り始めていたにもかかわらず、業界誌『トレードショーウィークリー』は、このマルディグラの開催地を、コンベンションビジネス部門の第 5 位にランク付けていた。ニューオーリンズ市のコンベンション・ビジター局によると、昨年は、 2001 年以前の年間来訪者数を上回る 1 千万人以上もの来訪者が、 2002 年と比べて 30 パーセント以上も多い 50 億ドルを市内で消費した。しかし、カトリーナの直接的な影響によって、ニューオーリンズ市は、今年 10 月末までに開催が予定されていた 120 以上の会議を失っただけでなく、 10 億ドルかけて開催される今年のマルディグラの祝賀行事にも準備が間に合わないのではないか、と心配するホテルも多い。

とはいえ、ニューオーリンズの観光業の宝ともいえるフレンチクォーターにある主要施設の大部分は損害が比較的軽微だったことから、事業主の多くは前向きに考えている。

Goldberger によると、 12 月 3 日に営業を再開した D デイ・ミュージアムには 1,300 人が来場したが、普段より子どもの割合が高かったという。この博物館は当面、午前 10 時から午後 6 時までほぼ毎日、営業する予定である。ただし、この地域に今も留まっている連邦緊急事態管理庁( FEMA )と軍の作業員を収容するため、木曜日と金曜日の営業時間は正午から午後 8 時までとなる(彼らの多くは、早ければ 9 月中旬には博物館を見られるようにしたいと願っている)。多くの家族が子どもを連れてこの地域に戻り、大学生も戻ってくると期待される春または冬の学期始めにはまた人口が増えるので、この博物館も営業時間を変更するかもしれない、と Goldberger は付け加えた。

他の多くの施設と同様に、この博物館も労働力の分散に悩まされた。現在、上級職員は全員復帰し、従業員のレイオフもごく僅かに留まった。しかし、職員数が減っている現状では、「総員配置」態勢を取らざるを得ない、と彼女は言う。

ニューオーリンズが今もなお復興に向けて努力奮闘し、アトラクション施設も展示品を懸命に回収している最中であるにもかかわらず、 Sims はこの町に大きな希望を抱いている。彼は言う。「事業のオーナーとしては、それでもなお、この町を放棄するつもりはありません。私は、この町が持つ力を信じています。たとえ時間はかかっても、この町は必ず復興します。この町が復活するためには、多大な努力が必要です。連邦政府のほうも、実業界がこの町を取り戻すための支援プログラムの作成に向けた作業を集中的に行う必要があるでしょう。」