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Japanese 彼女がトップ ワペロファブリケーションズの June Hardin 社長が、世界で最も高い評価を受けたインフレータブルメーカーの一番手に登りつめた手法を語る (記事: Tim O'Brien ) アイオワ州ワペロにあるインフレータブルメーカーの新しいオーナーとなった June Hardin は、 1973 年に倒産したこの会社の経営権を握ってからまだ間もない頃、よく自分の席に座っては、夫と 4 人の息子との生活と仕事とを両立させながら、どのようにして事業を再生すればいいのか頭を悩ませていた。 このような経験がまったくなかった彼女には、うまく切り盛りしていけるかどうかまったく自信がなかった。彼女はこう振り返る。「そのころ、本当に不思議なことが起こりました。何の前触れもなく、ひとりの老人が私のオフィスに入ってきたのです。今もなお、彼がどこの何者で、どうやってそこに入ってきたのかわかりませんが、姿を現したときには、私のデスクの向こう側に立っていました。彼は私を見下ろすと、にこりと笑って私にこう言いました。『お嬢さん、諦めたりしてはいけないよ。きっとうまくいくから。不況の最中でも、父親にはビールが必要だし、子どもたちには楽しみが必要なのだから…』 彼は後ろを向くと、歩いて部屋を出て行きました。それ以来、彼の姿を見ることは二度とありませんでした。」 とても不思議な話ではあるが、その励ましこそ、当時の彼女が必要としていたものだった。 36 歳にして主婦から経営者に転じた June Hardin は、そのときすぐに、自分が経営するその会社を成功に導くことが可能だと悟った。しかし、その先は悪戦苦闘の連続だった。 それから 33 年たった今日、 Hardin が経営するワペロファブリケーションズは、品質を重視したインフレータブル遊具を製造する大手メーカーとして、その名を世界中に知られるまでになった。主婦・母親から会社のオーナー経営者への転身は、彼女にとって「大きな変化」ではあったが、その彼女は過去を振り返って、家族の支えなしには何も成し遂げられなかったと述懐する。 「特に息子たちが高校に通うようになると、家族の支えなしに何かをしようとするのは、本当に大変なことです。」彼女の成功を家族全員が応援した。「そのことについては、本当に感謝の気持ちでいっぱいです」と彼女は言う。最初の数年間、彼女の家族、取引銀行、友人、同僚は、彼女にとってその順に、最も心強いサポーターとなった。 質の高い製品、安全な製品 Hardin は、自社製品が今日の市場で販売されている製品の中で最高であり、かつ最も高価であるという世間の評価を誇りに思っている。同社の長年の顧客であるドイルインターナショナル社の Skip Doyle は言う。「あの会社の製品の価格が多くの他社製品より高いのは、市場で最高の製品を作り、売った製品には完全なサポートをつけるという彼女の方針によるものです。質の高い素材と優れた職人の技術を使っていれば、安くはできないでしょう。」 Hardin は、主に移動遊園地、パーク、レンタル会社、教会、それにフリーの興行師を相手に製品を販売し、今もなおトップセールスマンとして会社のために働いている。ワペロは、他の遊具メーカーからの特注品の生産を引き受けるかたわら、オフシーズンにはトラックやボートの防水シート、その他「同じ材料と機械を使って作れるものなら何でも」製造している、と彼女は言う。創業直後の数年間、ワペロが受注する仕事は 100 パーセント、アミューズメントパーク向けのインフレータブル遊具だった。今日、その割合は 75 パーセントまで低下している。 Hardin は言う。「私がこの仕事を始めたとき、インフレータブルは比較的新しいビジネスでした。当初は子どもが飛び跳ねるクッションを手がけましたが、その後、子どもたちが外に飛び出さないようにサイドを取り付けました。」その後はもちろん、スライドやテーマ型アドベンチャーのような製品も市場に登場したが、そのどちらも、安全上の理由から自社の製品には追加しなかった、と彼女は付け加えた。 インフレータブル業界のイメージを非常に気にかけていた Hardin は、当初から、安全を推進するためにできる限りのことをやってきた。インフレータブルの単独規格に関係する ASTM F-24 委員会の作業部会のリーダーを務めた彼女は、「この業界の安全性向上を推進するための」ありとあらゆるグループに関与してきた。業界組織の設立以来、 AIMS 安全セミナーで Hardin が主要な役割を担ってきたことについて、業界顧問弁護士の Tom Sheehan はこう語る。「 Hardin 社長は長年にわたって安全性を強く主張し続けてきた人で、その言葉はけっしてリップサービスのようなものではありませんでした。」 AIMS の前身である AREA が改組されてこの組織が発足した当初、彼女は理事会のメンバーだった。 Sheehan はこう付け加える。「この協会の実に多くの分野に関与していた彼女は、その組織においても、またそれに携わる人々に対しても非常に熱心に活動していましたので、仲間内では、敬愛を込めて彼女のことを『マム』と呼んでいました。」 この業界の世界的なコンサルティング会社であるアミューズメント・インダストリー・コンサルティングの Jerry Aldrich は、「 Hardin のような人がいるおかげで、この業界の基盤は非常に強固なものになった」という。「 Hardin 社長は、様々な安全団体への関与を通して、この業界に多大な貢献をしてきました。彼女がこの業界への恩返しとしてもたらした恩恵に浴する人はたくさんいますが、何をもってしてもそれに報いることはできないでしょう。」と彼は言う。 ニューヨークのブロンクスにある CC アミューズメントの John Elio は、ワペロがそれにふさわしい仕事をしているという。彼は言う。「私は長年にわたって、ワペロの製品を繰り返し買い付けてきましたが、それは、品質の高い製品だけを買いたいからです。 Hardin 社長は、自分にできることは何か、他の誰よりもうまくやれるのは自分しかいないということがよくわかっています。」 ことの始まり Hardin には、自分がつねにビジネスに携わっていたいとか、アミューズメント業界に留まりたいという強い願望をまったく持っていない。文字どおり、たまたま時宜を得て、そのような立場に居合わせたに過ぎない。 「私はつねに、主婦としての生活と生産工場での仕事の両立を図っていました。スポーツをしている 4 人の息子が出る練習試合や試合を見逃したことはありません。行事があれば必ず出かけて、自分が応援している姿を見せるようにしていました」と Hardin は言う。 そもそものきっかけは、財務上の問題を抱えていたこの会社の前のオーナーに対し、 Hardin の家族と親交があった銀行家が、彼女を雇って仕事を手伝ってもらうように勧めたことだった。彼女はその会社に就職したが、その財務状態が悪化すると、銀行は会社を差し押さえて、その頃にはこのビジネスを学び取っていた Hardin にそれを売却した。即金では買えなかった彼女に銀行が有利な条件で貸し付けてくれたことについて、彼女はこう語る。「銀行は、私を会社のオーナーに据えることが、投資を保護するのに最も好都合だと思ったようです。」 前のオーナーとは距離を置くために、 Hardin は新しい社名を考えた。その当時、インフレータブルを製造していた同業者は、ムーンウォーク、スペースウォーク、それにシンダの 3 社しかなかった。だが彼女は、それらとは違って、目立ちながらも覚えやすい社名をつけたかった。結局、会社の製造工場がある町の名前にちなんで、社名を「ワペロ( Wapello )ファブリケーションズ」とした。 会社の買収を考え直すようなことはなかったのかと質問したところ、彼女はただ笑うだけで何も答えなかった。「今日までに築き上げてきたこの会社を、とても誇りに思っています」とだけ彼女は言った。 Hardin はこう振り返る。「最初の頃は、それはもう大変な仕事でした。私たちが買収した建物が火事で焼けてしまい、製品のひな型をすべて失ってしまいました。そのため、新しく型から起こさなければなりませんでした。前のオーナーの下で働いていた女性社員を 2 人雇って、 3 人がかりで週 50 ないし 60 時間、ひたすら働き通しました。」 Hardin の姿が裁断縫製現場にないときは、いつも製品を売り込むためにオフィスで電話をかけていた。 彼女自身、この仕事を始めたころは「とてもビジネスウーマンといえるようなものではなかった」と認めているが、年を重ねるにつれて、ビジネスにも熟練していった。彼女は言う。「私よりももっとビジネスをよく知っている人がいてくれたら、この会社ももっと伸ばせたかもしれないと思うことが今でもあります。」 ファミリービジネス 学校、祭事、個人のパーティーなどへの貸し出し用としてインフレータブルを購入するレンタル企業が急成長したことにより、この種の製品に対する需要が発生した。メーカーの新規参入が相次いだため、 Hardin の会社も競争にさらされた。しかし、会社のビジネスは引き続き好調だった。 Aldrich は言う。「多くの競争において、彼女は先発企業としての強みを活かしました。その品質へのこだわりは最初から高い評価を受け、顧客はその後も彼女の会社から買い続けました。」 現在では、 7 人の従業員のほか、彼女の息子のうち 2 人が工場を手伝い、彼女の夫 Don が見本市を手伝っている。息子のひとり Don はデザイナーで、 CAD の仕事を一手に引き受けており、もうひとりの Kevin はグラフィクスが専門で、完成品の塗装を手作業で行っている。 Hardin はこうつけ加えた。「スクリーン印刷は使っていません。 Kevin はすべて、手で描いています。」 パークの遊具を製造しているメーカーを率いる女性が、この業界で彼女ただひとりだった創業当初を振り返って、彼女は笑う。「私は誰でも信用しましたので、何度か大やけどを負いました」と言う彼女は、ふたたび笑ってこう付け加えた。「誰もが中西部の生まれだとは限らないということに気づくまで、しばらくかかりました。」また、(男性から)かかってくる電話の多くは、いつも決まって「お嬢さん、オーナーを出してくれないか」という言葉で始まったものだと述懐する。 昨年、腰の圧迫事故が原因で脚と足に障害を抱えた Hardin は、仕事のペースを少し落とさなければならなかった。彼女は 2005 年 9 月に手術を受けたが、アトランタで開催された IAAPA アトラクション展示会では、ワペロの展示ブースに姿を見せた。健康を取り戻すまでに 1 年くらいかかるかもしれないと医者から言われたそうだ。このインタビューの終り近くになって、 Hardin はにこりと笑って記者にこう聞いた。「私がいつ引退するつもりなのかといった愚問はなさらないのね?」 記者はこう答えた。「いいえ、そのような質問をするつもりはありませんでした。しかし、せっかくですからお尋ねしましょう。近々、引退なさる予定はありますか?」 Hardin は笑って答えた。「いいえ、引退するつもりはまったくありません。」 一元化と権限委譲 戦略計画を立案し、スタッフを再構成、組織化したIAAPA 理事長の J. Clark Robinson がその座をCharlie Bray に譲り、IAAPA マスタープランは新段階へ。 (記事:Tim O’Brien ) J. Clark Robinson は 2 月 1 日付けで国際アミューズメントパーク・アトラクション協会( IAAPA )の理事長兼最高経営責任者( CEO )を退任し、このたび新設されたグローバル問題担当専務理事に就任する。後任の理事長には、 2004 年 7 月に同協会に加わった Charles Bray 最高財務責任者( CFO )が就任する。 「私は最初から、この地位に長く留まるつもりはないと明言していました」とRobinson は言う。 2002 年 6 月に暫定理事長として協会の経営陣に加わった彼は、その年の 11 月に正式に理事長に指名された。 理事長を務めたRobinson はもともと、自ら望んでこの役職に就いたわけではなかった。ユタ州ファーミントンのラグーンパークを 1998 年に退職した彼は、モルモン教会のオーストラリア西部伝道団の団長として 3 年を過ごした後、ユタ州に戻って、妻の DeeAnn とともに 18 人の孫に囲まれて余生を過ごすのを楽しみにしていた。「まだそれは実現していないようです」と Robinson は言う。 Robinson が 2001 年に米国に帰国したとき、IAAPA は、この業界に詳しい専門家の指導と助力を必要としていた。 IAAPA で会長を務めたことのあるシックスフラッグズのGary Story 社長は言う。「当時、この協会が直面していた重大な状況を理解していた人はほとんどいませんでした。安全性に関する私たちの記録に対して複数のマスコミから攻撃を受けるなど、業界として取り組まなければならない課題がいくつもあったのです。」 世界最大のこのアミューズメント業界団体が安定を取り戻すためには、この業界を知り尽くしたベテランの力が必要だということに理事会の幹部が気づくまで、それほど時間はかからなかった。すぐれた対人交渉能力を持つ Robinson こそ人間関係を構築してスタッフを再構成できる人物だということは、理事会の全員が知っていた。その 5 ヶ月後、彼は専任の理事長として就任するように求められた。 Robinson は、この重責を引き受けた理由を次のように述べている。「いろいろな意味において、そうすることこそ、長年にわたって協会から受けた恩恵に報いる方法であり、愛するこの業界での自分のキャリアを締めくくるのにふさわしい方法だと思ったからです。実のところ、私自身や家族のことを考えたら、ここには戻ってこなかったでしょう。」彼は、専任の理事長職を引き受けたとき、後任の人選を進めることと、 5 年以上はやらないことを明言した。 2001 年に退任するまで 20 年にわたって協会に奉職したIAAPA 前理事長のJohn Graff は言う。「 Robinson は、この役職には打ってつけでした。協会が迎え入れようとしていた彼は、誰もがよく知る人物で、私たちは最初から彼のことを信頼していました。一同、彼の能力だけでなく、その人柄も知っていました。」 Story によると、当時の協会は「落ちてばらばらになったハンプティー・ダンプティーのようなもので、それを元通りにつなぎ合わせてうまくやれるような人物は誰もいない」とまでいわれていた。 Robinson と二人三脚で協会を率いたJohn Collin s 前会長は、本誌(Funworld )にこう語った。「 Robinson は、舵取り役としては最適任でした。当時も現在も、この協会に彼がいることを、とても幸運に思います。できることなら、このままずっと協会にいてほしいものです。」 Robinson が実績を上げ、違いが出てくるまでにそれほど時間はかからなかった。 2005 年に協会の会長を務めたJane Cooper は言う。「 Robinson 理事長の在職中に、この協会は大きな進歩を遂げました。彼は、協会の企画立案とプログラム開発の指針となる戦略計画を策定するとともに、組織のガバナンス、ならびに理事会と委員会の機能を強化しました。」 Cooper は、Robinso n についてこう付け加えた。「彼は、健全な事業慣行と効果的なリーダーシップを開発することによって、この協会の組織効率を改善するという偉業を残したのです。」 わずかな手助けで 役職を引き継ぐにあたっては、周囲の全面的なサポートを受けた、とRobinson は言う。「私は元会長ということもあって、長年の付き合いがある同僚の皆さんから非常に強力なサポートを受けられました。理事会と業界の双方から私に寄せられた信頼は、当初からはっきりとしたもので、正しいことをやるために私が必要とされていることがよくわかりました。着任した私は、何ら妥協することなく、協会にとってこれがベストだと自分が考えた通りのことを実行しました。」 Story によると、この業界と協会の双方について幅広い知識を持つRobinson は、 IAAPA が業界とよく話し合う必要について、明確な視野を持っていたという。 Robinson によると、 IAAPA のオフィスに足を踏み入れた彼が最初に着手したのは、スタッフの一元化と権限委譲だったという。彼は言う。「それまで私は協会の理事長ではなく、パークの経営者でした。ですから、うまくやっていくためには、専門知識のあるスタッフで周囲を固める必要があることはわかっていました。私は人に任せる主義で、配慮が行き届く専門職のスタッフがカギを握っていることをよく理解していました。自分が誰であるかということよりも、自分の周囲に誰がいるかということのほうが大事なのです。」 彼は首を横に振りながら、こう説明した。戦略計画を作る際にはやたらと大上段に構えるくせに、計画を作り終えてしまうと、その計画書を片付けて二度と振り返らない組織は非常に多い。IAAPA のスタッフマネジメントという領域に踏み込んだ彼は、まず古い戦略計画書を見つけてその埃を払い落とすと、新しい計画の策定に着手した。「向こう何年にもわたって協会が実行する事業計画を作成するためには、その前に、堅実な方針と実現可能な戦略計画とを持たなければならないことはわかっていました」と言う彼は、新しい戦略計画に向けたこの作業が IAAPA の運営方法を変えた、と付け加えた。 知識のベース 当初から注目されていた大きな違いは、Robinson が、団体の経営幹部になるべくして教育を受けた人物ではなく、ひとりの業界人だったことである。彼の意思決定と経営のスタイルは、 50 年近くもこの業界で働いてきた経験によって研ぎ澄まされた彼の本能に基づいたものである。 Robinson は 8 歳のときから、ラグーンパークで働いてきた。酪農場の隣家で育った彼は、そのパークの「ファンハウス」の猿に餌を与え、その小屋を掃除することで、 1 日 25 セント稼いでいた。彼がアミューズメント業界で初めて経験したこの仕事は、ある日、彼が小屋のドアを開け放しにしたために猿たちがファンハウス中を逃げ回ったことが原因で、突然終わってしまった。パークで働き続けることはできたものの、後日スイミングプールに移された彼は、そこでバスケットボーイになった。 高校と大学時代を通してそのパークで仕事を続けた彼は、「ファシネーションマネージャー」、ゲームマネージャー、フードマネージャー、ピクニックマネージャーなど、いくつかの監督業務を含む様々な仕事を経験した。その間も彼は、高校のフットボールチームのスプリットエンド(レシーバー)としてプレーする時間があった。名手であった彼は、ユタ大学の学費を全額奨学金でまかない、選手として 4 年間活躍して 1964 年に会計学科を卒業し、さらに 1966 年には同大学で MBA (経営学修士号)を取得した。(なお、 Robinson のスポーツ活動は今日も続いている。彼は、テニスの全国シニア選手権で何度か優勝したことがあり、米国のシニア代表チームの一員として国際試合にも出場した。) Robinson が妻のDeeAnn と出会ったのは、ともに大学に在学していた当時の歌の集いの会場だった。二人がお互いのことを真剣に考えるようになるまで少し時間があったものの、彼によると、一度彼女に会ってからは「他の誰ともデートしたことがない」という。二人は 1964 年 3 月 13 日の金曜日に結婚したが、新婚旅行に出発できたのは、翌日の午後になってからだった。これについて Robinson は、担任の教授がその週のもっと早い日に試験を受けさせてくれなかったのでとても困ったと説明した。彼はこう振り返る。「その週は試験があったのですが、私が試験を受けたのは土曜日の午前中でした。金曜日の夜に挙式を済ませてから、私は土曜日の朝 7 時に起きて試験を受け、大学から帰ると DeeAnn を車に乗せて、ラスベガスに向かいました。」二人は日曜日の夜には帰宅し、次の月曜日には、 DeeAnn は教職の仕事に出かけ、 Robinson も授業に出席したという。このような失敗があったにもかかわらず、 DeeAnn がそれで嫌な顔をすることはなかった。彼女は笑いながら、当時のことを振り返る。「彼が試験を受けている間、私のほうは、二人で新しい生活を始めるアパートに行って掃除をしていたんです。」 MBA の課程を修了したRobinson が公認会計士事務所で働き始める準備をしていた矢先、これも運の巡り合わせだろうか、ラグーンパークの監査役が退職することになった。このとき Robinson は、当時このパークの支配人をしていた Robert Freed ( IAAPA 元会長)から仕事のオファーを受けた。彼は言う。「ラグーンパークで正式な職に就くとは、考えてみたこともありませんでした。しかし、昔からなじみ深いこのパークには愛着を感じていました。そのオーナーの Freed 一家にも敬愛と尊敬の気持ちを抱いていた私は、たまたま空きができたその職場に、喜んで就職することにしたのです。」 Freed が 1974 年にこの世を去ると、Robinson は支配人に昇進し、その後 1998 年に退職するまでその職にあった。 2002 年に IAAPA の理事長に就任した Robinson は、協会ではすでによく知られた顔であった。それまで 27 年間にわたって IAAPA 理事会に奉職していた彼は、収入役を 2 期務めたほか、財務委員会にも 12 年間在籍していた。 1981 年度の会長も務めたが、そのような機会が巡ってくるとは、彼自身も思っていなかったようだ。彼は言う。「私はパークのオーナーではありませんでした。私が理事会入りして間もない 1978 年当時、パークのオーナー以外で会長になったことがあるのは、 Carl Hughes と Truman Woodworth の二人だけでした。」 Robinson が初めて IAAPA 展示会と総会に出席したのは、シカゴのシャーマンハウスで開催された1964 年のことだった。それからオーストラリアに移る 1998 年まで、彼は一度も総会への出席を欠かしたことはない。彼は本誌( Funworld )にこう語る。「私は人生の一部を残してきてしまったので、正直なところ、また業界の仕事に復帰することになろうとは思っていませんでした。」 Robinson とDeeAnn は 2001 年にユタ州に戻ってきた。オーランドで開催された見本市と総会に二人で出席した後、 Robinson は元会長としてその年の理事会の席に顔を出したが、それは単に、旧交を温めたかったからだ。しかし、それから数ヶ月もたたないうちに、当時会長を務めていた Alain Baldacci が彼に電話をかけてきた。Robinson は言う。「暫定的な役職についてみる気はないかと彼が聞いてきたので、私は『いいですよ』と答えました。それが事の始まりでした。」それから数週間後に暫定理事長に指名された彼は、バージニア州アレクサンドリアにある IAAPA のオフィスの近くに仮の住まいを決めた。 新たな役職 グローバル問題担当専務理事というRobinson の新しい役職は、彼自身と協会の双方にとって有意義なポジションだとStory は言う。「世界に対する IAAPA の『大使』として、 Clark Robinson ほどふさわしい人物は他にいません。 2002 年にこの協会の未来を救う役職を引き受けてくれたときとまったく同じように、新設された役職を引き受けてくれた彼は、この協会がグローバルな成長を遂げるように力を貸してくれることでしょう。」 新たな役職に就いたRobinson は、 IAAPA を代表して世界各地に出張し、業界団体、政府関係者、メーカーおよびサプライヤー、個人会員と対話を重ねるつもりだ。Robinson が特に期待に応えてくれそうな新会員の直接勧誘に関しては、彼の右に出るものはいない、とStory は付け加えた。 Robinson を IAAPA の「移動大使」として留めておくことは、この組織の未来において重要な役割を果たすだろう、とCollins は言う。彼は次のように指摘する。「協会の内外どちらの立場にも身を置いたことがある彼のような人物に協会を代表してもらうことは、大きな強みとなります。この協会には、世界 92 ヶ国から会員が参加していますが、これらの国々の多くは、国内に加入できる業界団体がありません。Robinson なら、国内組織がない国々のパークに助言を与えられるだけでなく、おそらく、独自の協会創設に向けた指導もできるでしょう。彼は、 IAAPA に力を貸してくれるだけでなく、全世界の業界にとって、非常に重要な役割を果たしてくれることでしょう。」 Graff はまた、このように指摘する。「全世界のアミューズメント業界を融合させようとすると、どうしても法律的な問題や疑問が発生します。Robinson なら、グローバルな問題に集中して取り組み、彼が持つ専門知識を活かして、有意義で具体的な関係や提携を生み出してくれることでしょう。それは誰にとっても、良いことなのです」と彼は言う。 この新しい役職は、過去 3 年間にわたるRobinson の経験が生み出した成果でもある。Robinson は言う。「全世界に手を差し伸べることは、とても大切なことです。私はできる限りのことをしてきたつもりですが、やるべきことはまだたくさんあります。私はオフィスで働く一方で、出張にも出かけなければならなかったのですが、家族とともに過ごしたいという気持ちもありました。つねにどれかを犠牲にしなければなりませんでした。」彼はそう言いながらも、 Bray 新理事長が日々の業務と協会全体の統括に専念できるように手伝うことが自分の責務だという。「 Bray 理事長は、かつての私よりもオフィスで過ごす時間が取れるでしょうから、 3 つの大型展示会の運営と、私たちが始めた事業再構築の仕上げに専念することができるでしょう。 20 ヶ月前にBray を協会の最高財務責任者( CFO )として雇われたとき、それは、Robinson が理事長の職を退いた後のトップ就任含みの人事と了解されていた。 Robinson は言う。「 Bray 理事長には、この業界独特の感覚をよくつかみ、どの展示会場にも最低 2 回は足を運んでほしいと思います。そうすることは、この業界に習熟する良い機会にもなりますし、また理事会にも彼の能力に対する信頼感が生まれます。」 Story は言う。「Bray はすでに私たちの期待を上回っています。おそらく、これは彼が今まで受けた中でも、最も長い就職面接に違いありません。」 自分はけっして引退するのではない、とRobinson は付け加えた。視点を変えて、世界に手を差し伸べる仕事を彼が引き受けたひとつの理由は、成長し続ける家族とともに過ごす時間を増やせることにある。そしてもうひとつは、それによって、「長年にわたって、自分自身と家族にとても多くのものを与えてくれた」世界最大のアミューズメント業界団体に引き続き貢献することができるからだという。 空気による造形 空気で膨らませたアトラクションの周囲に、磁石のように引き寄せられない子どもは、おそらくいないだろう。弾力性があり、色とりどりで、うねりながらその形を変えるこの種のアトラクションには、どこか抵抗しがたい魅力がある。しかし、インフレータブル業界が成熟するにつれて、この種のアトラクションのデザイン、構造、テーマ設定に変化が起きており、これまでよりも教育訓練と安全に強い関心が集まっている。インフレータブルにはありとあらゆるサイズ、形、色のものがあるが、ある場所では流行っていても、他の場所では人気がないこともある。映画をテーマにしたインフレータブルが大流行している市場があるかと思えば、障害物コースやゲームのほうが人気を呼んでいる市場もある。 ロサンゼルスのニンジャジャンプ社で営業・マーケティング担当幹部を務める Carol Crain は言う。「何に人気が集まるかは、そのアトラクションがある地理的位置や人口構成によって大きく変わってきます。たとえば、(映画をテーマにした)当社のアトラクション『マダカスカル』が人気を呼び始めたのはオーストラリアでした。」 120 以上のサイズやデザインのインフレータブルを販売しているニンジャジャンプは、使用許諾を受けたキャラクターのインフレータブルを専門に扱うメーカーで、ウォルトディズニー、ユニバーサルスタジオ、ニッケロデオンなどから独占的な使用許諾を受けているという。 時代の最先端を走るクリエーション社(ミネソタ州イーガン)が、 1997 年に大ヒットした映画「タイタニック」の後に製造した「タイタニックスライド」は、同社が製作したテーマ型スライドの中でも最も人気が高い商品のひとつになった。しかし、同社の上級副社長を務める Bob Field は、この種のインフレータブルの人気はむしろ下がり気味だと警告する。彼は言う。「映画をテーマにした製品からは距離を置こうとしています。というのは、人気があまり長続きしないことがときどきあるからです。ですから、当社では、たとえば恐竜とか宇宙をテーマにしたもので、向こう何年にもわたって最先端を走り続けられるような独自のテーマ作品を創作しています。」 Field の会社が製作しているインフレータブルには、 25 種類のスライドと 20 種類の障害物コースがある。「当社の『ドラゴンの城』のようなテーマ型の障害物は、この業界では現在、スライドに次いで最も人気があります」と彼は言う。 これ以外に需要の大きなインフレータブルとして、複数のアクティビティが含まれるタイプのものがある。 Crain は言う。「現在はインタラクティブなものが大きなトレンドになっています。飛び跳ねるだけでなく、バスケットボールのゴールや障害物コース、スライドが同時に楽しめるもので、当社ではこれをファイブ・イン・ワンと呼んでいます。」 英国レスターシア州ヒンクリーにあるジャンボインフレータブル社で営業マネージャーを務める Richard Taylor によると、ヨーロッパでは、スポーツをテーマにしたインタラクティブなインフレータブルがスライドに迫る勢いを見せ、十代の若者や大人に人気があるという。「障害物や難関にバスケットボールを組み合わせて競争するようなものに人気があります」と彼は言う。 ジャンボ社が製作している巨大なスポーツインフレータブルのひとつに「ヒューマン・テーブル・サッカー」と呼ばれるものがある。これは広げると、 700 平方フィート(約 65 平方メートル)近くになる。 Taylor は言う。「酒場にあるようなテーブルゲームを素材にしたものです。中央につないである 6 本の長いポールを使って、 5 対 5 でサッカーを楽しみます。プレーヤーはポールに沿って横滑りすることができますが、前後にはあまり動けないので、本当にテーブルゲームをやっているような感覚で楽しめます。」 地理的な市場の違いに関しては、 Field によると、米国で導入されたスタイルやテーマは、他の地域で人気が出るまでに時間がかかるという。彼の観察によると、「国内で発売された製品が世界各地で人気を呼ぶまでに、 2 年から 3 年はかかるようです。 1998 年に発売した『タイタニックスライド』には、今でも世界各地から引き合いがあります。」 インフレータブルは、奇抜なテーマを基に製作した明るい色のものが主流だが、ある会社の製品は、それより暗いデザインを特長としている。ディストーションズ・アンリミテッド/ブレインチャイルド・デザイン・ラボ社(コロラド州グリーリー)は、どちらかといえば暗いテーマの製品を専門に扱い、インフレータブルに鋭角をつけることで、恐ろしい外見に仕立てている。 同社の Ed Edmunds 社長は言う。「数年前にこの『ザ・ビースト』のアイディアを思いついたとき、私は IAAPA (展示会)の会場から飛んで帰りたい気分でした。本気でもっと格好のいい物を作ろうと思えばできるのに、他の人たちはどうしてまた青色のゴリラなんか作っているんだろうと不思議に思いました。」この会社が製作した「ビースト」は、全長 150 フィート(約 46 メートル)のマンモスのインフレータブルである。このモンスターが 2002 年の IAAPA オーランド大会でデビューすると、観客の間に強い印象を残した。その生き物の口から入った観客が、鼓動する心臓を通り過ぎて胃腸の中を巡りながら、特殊効果を楽しんだ。 Edmunds は言う。「このインフレータブルはこれまで、 14 なし 15 ヶ国で取り付けました。目抜き通りの近くに設置されると、市場で大きなヒット作になるように思いました。中でも香港に設置したものは最も多くの観客を集め、 30 日間で 12 万人もの人々が訪れました。」 この会社ではこのほか、巨大な人間型のインフレータブル「ザ・ジャイアント」や「スカル・アンド・クラウン」ファサードを製作している。これらは、アトラクション会場の入口に置かれ、観客を怖がらせるのに使われた。
買い手へのアドバイス メーカーの中には、低品質の構造物についてバイヤーに警鐘を発し、インフレータブルの材質と設計によく注意するように求めている会社がある。バウンサーやハシゴ昇りなど基本的なインフレータブルを専門に生産しているワペロファブリケーションズ(アイオワ州ワペロ)の June Hardin 社長は言う。「当社では、底部に 22 オンスの厚手のコーティング生地を、上部には良質の米国製生地を使用しています(ワペロに関する詳細は p. 26 のカバーストーリー参照)。このほかバイヤーとして注視すべきポイントは、縫製が 2 重、 3 重、あるいは 4 重になっているか、ストレスがかかるポイントにナイロンで強化されたウェビングがついているかでしょう。インフレータブルの寿命は 5 年から 7 年ですが、手入れとメンテナンスの仕方によって大きく変わってくることがあります。」 Taylor によると、インフレータブルの設計と構造は、水遊びに使われるかどうかによって異なる。彼は言う。「生地も違いますし、木綿も厚くて丈夫なものを使います。また、安全監視上の理由から、中で遊んでいる人が見えるように、各要素は長くて細いものでなければなりません。」 巨大サイズのインフレータブルは、そのサイズの大きさゆえに、組み立ても困難になる。 Edmunds は言う。「大型のインフレータブルは丸っこくなりやすく、先端部の形が失われます。つまり、ゴツゴツとした不気味な印象を持たせて作るには不都合です。また、『ザ・ビースト』のようなインフレータブルは、いくつかのセクションに分けて構成していますが、それでもそれを縫製装置に乗せるには、大の男が 5 人がかりで運ばなければなりません。」 生産現場で最近、最も大きな変化が見られたのは、インフレータブル表面にプリントされるグラフィックスである。 Crain は言う。「メーカーの多くは、今でも社内のアーティストを使っています。しかし、当社のデジタルプリンティング装置を使えば、あらゆる仕事をこれまでよりずっと早くこなすことができます。」同社の多色刷りのデジタルプリンターは、写真画質の画像や精巧な 3D デザインを作り出すことができるという。 インフレータブルアトラクションの費用は、本体の大きさや複雑さ、特殊機能、ならびに材料の品質によって大きく変わってくる。主に西欧のアミューズメントパークやレンタル会社を相手にインフレータブルを販売している Sidijk 社(オランダ・フリースラント州グロウ)の CEO 、 Wytze Kaastra は言う。「当社製品の価格は、 2,000 ユーロ( 2,420 ドル)から 25,000 ユーロ( 30,262 ドル)まで様々です。」 インフレータブルアトラクションの主な買い手には、 FEC (家族向け娯楽施設)、移動遊園地、アミューズメントパーク、親睦団体、プロモーション会社などがある。このほか、動物園や博物館も買い付けに加わることがある。 Field は言う。「実際、『タイタニックスライド』をタイタニック博物館に、バウンサーを動物園に売ったこともあります。」 しかし、アトラクション品質のインフレータブルの最大の買い手は、様々な顧客にそれをリースする屋外機材専門のレン | |||||||||||||||||||||||||