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April 2006
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故郷に描いた夢

ヴィック・ノルティングは、テーマパーク産業で経験を積んだ後、自分の故郷に帰り、古い遊園地の再建に努力した。

ティム・オブライエン

 

この物語では、復活を遂げた施設と、その復興に努力した男が主人公だ。ヴィック・ノルティングは、オハイオ州のシンシナティで生まれ、故郷で働き始め、やがて数年故郷を離れて自分の技能を磨き、それから再び故郷に戻り、建設後 98 年たっていた古い施設を蘇らせた。

これはまた、シンシナティのコニー・アイランドの遊園地の運命に関する話でもある。この遊園地は、生き延び、そして復活を遂げた。この遊園地は、 1886 年にオハイオ川流域の湿地に設立された。当時は、子供たちにとってはスリルを求める場所で、大人たちにとっては土曜の夜に大きなバンドの音楽に合わせてダンスを楽しむ場所だった。 1960 年代後半には、現地で非常に人気の高い遊園地となり、 30 以上の乗り物が設置されて、すでにそれ以上の拡張ができない状態だった。毎年、夏には、 100 万人以上の人々がこのパークを訪れた。

1960 年代末に、このパークを所有していたタフト・ブロードキャスティング社の役員たちは、テーマパークを拡大すればさらに多くの入場客を見込めることに気付き、拡張するための土地を探し始めた。そのころには、地域的なテーマパークが全盛期を迎え、タフト社はこの流行に乗ろうと考えたのだ。同社はシンシナティの 20 マイル北に土地を見つけ、建設を開始した。コニー・アイランドのパークを閉め、その乗り物、その他の設備、さらには樹木までも新しいパークに移す計画を立てた。

完全な設備を整えた遊園地であったコニー・アイランドは、 1971 年 9 月 6 日に閉鎖された。現地の多くの人たちは、この遊園地が完全に閉鎖され、復活する日は来ないと考えた。新しいキングズ・アイランドのパークは、 1972 年の春に開園し、一時非常ににぎやかだったコニー・アイランドにはサンライト・プールのみが残された。これは、当時世界で最大の水を循環させる水泳用プールだった。

ノルティングは、シンシナティで成長し、少年のころにはほとんど毎年、そして 10 代のころには頻繁にコニー・アイランドに遊びに行った。「私には、サンライト・プールの塩素のにおい、暗くなると灯る電灯、若者が気にせずにはいられないかわいらしい女の子たちなど、楽しい思い出がたくさんある」と彼は言う。ノルティングが初めて乗ったジェットコースターは、コニー・アイランドの「流星」だった。 1937 年に PTC が建設したもので、 1971 年に取り壊された。

「私はたくさんの友達と遊園地に行き、みんなが「流星」に乗った。だが、私はそれを見ていただけっだ」とノルティングは語る。「私が勇気をふり絞って流星に乗れたのは、 3 回目か、それ以降だった。」彼は、それが 12 歳のときだったと言う。しかも、待てるだけ待っでから乗ったので、今の子供たちに比べれば「信じられないくらいの弱虫」だったのだ。しかし、そのあとは、逆にジェットコースターが大好きとなり、今では自分ほどジェットコースターが好きな人間には会ったことがないと言うくらいだ。

ノルティングは、大人になっても残るこのような自分自身が遊園地で遊んだ幸せな暖かい思い出を、「今、遊びに来るお客様にも味わってもらいたい」のだとファンワールド社に言っている。

ノルティングは、今では、コニー・アイランドの社長で、ヨギベアのジェリーストーン・パーク・キャンプ・リゾートのフランチャイザーであるレジャー・システムズの副社長だ。ノルティングがコニー・アイランドを経営した最初の年が 1984 年だったが、それ以来、ノルティングは毎年会社に利益をもたらしている。「利益は年によって上下する。やりがいのある仕事だ。しかし、このような本当にシンシナティの名所と言える施設の復活に参加できたことはすばらしいことだ」とノルティングは言っている。

今では、年間に 60 万人の人々がこの遊園地を訪れる。ノルティングは、現在の総合計画が実現すれば、遊園地のビジター収容能力は 75 万人まで増大すると考えている。これは、プール、乗り物のほか、ピクニックまで含めた数字だ。遊園地は入場が無料で、乗り物、ショー、プールなどの利用が有料である。別に、遊園地に隣接した階段式観客席を持った劇場「リバーランド」があり、年間 30 万人の観客が来る。

 

NFL (米ナショナル・フットボール・リーグ)からキングズ・アイランドへ

ノルティングは、シンシナティにあるザビエル大学で労使関係を専攻して 1970 年に卒業したが、その間に「約 8 時間」プロ・フットボールのキャリアを積んだと冗談を言う。ノルティングは、ザビエル大学での華々しいフットボール・キャリアを認められ、プロ・フットボールチームのニューヨーク・ジャイアンツからドラフト指名された。ノルティングは、「ドラフト指名は下位だった」し、「ひざの故障がひどかった」ので、自分にプロ・フットボール選手としての将来はないと判断したと言う。

「私はある朝ニューヨークに行き、整形外科の診察を受けた。医者は、チームに私の前十字靭帯が切れていると報告したので、チームは私の指名を急いで取り消した。その午後、私は故郷に向かう飛行機に乗った。ノルティングは、「短いキャリアだった。複雑な心境だった。私は本当はフットボールが本当に好きだった。しかし、ひざの故障のため実際にプレーすることは無理だと分かっていた。だから、このような成り行きになることは覚悟はしていた」と言っている。

父親のレイは、シンシナティ大学で優秀な選手であり、 1936 年から 1944 年にかけてシカゴ・ブルズで活躍した。ノルティングが生まれた 1947 年には、シンシナティ大学のフットボール・チームのヘッドコーチを務めていた。

ノルティングは、 NFL を去った後、ゼロックスに勤務し、 2 年間地区営業担当者を務めた。次に、 5 年間、紳士服の卸売り会社で働いた。

ノルティングは、今、テーマパークにかかわる前の経歴を振り返って、その期間の仕事を通じての人間形成が非常に重要だったと考えている。「そのころ、自発性を高めた」と言う。「上司は 800 マイルも離れた場所にいた。だから、毎日、自分で仕事を始めた。自分の体の中にモーターがなければ、朝起きようとは思わない年頃だった。」

ノルティングは、そのころ自分で管理ツールを開発し、それを今でも使っている。「私は、リスト作りが好きだ。毎日仕事を終えて事務所を出る前に、翌日の仕事のリストを作る。ときにはリストを見ないこともあるが、とにかく自分のデスクには常にリストが用意されている。1つの仕事を終わってリストからその仕事を消すのが快感だ。」

ノルティングは、 1977 年にキングズ・アイランドのチームに入った。そこで、グループ営業の地域マネージャーとなり、営業部長補佐になって、 1978 年に管理トレーニングを受けた。

シンシナティの国際テーマパーク・サービシズの会長であるデニス・スピーゲルは、コニー・アイランドの遊園地の最後の 2 年間アシスタント・マネージャーを務め、その後キングズ・アイランドに移った。タフト社がバージニア州リッチモンドの近くにキングズ・ドミニオンを建設したときに、スピーゲルがその総支配人となった。

スピーゲルは次のように語った。「 1979 年の末に、私は何人かの研修生をキングズ・ドミニオンに連れて行くことができたが、私はたった一人を選んだ。私が選んだのはビックだった。彼は、そのころすでにすばらしい能力を発揮していた。単に、技能だけではなく、パーソナリティがすばらしかった。彼は、頭の回転が速く、分析能力があり、洞察力があった。この業界に長くいたわけではないのに、ビジネスに対する理解力が高く、何度も驚かされたことがあった。」

ノルティングは、キングズ・ドミニオンで 2 年間、企画・事業分析マネージャーを務め、次にタフト社がテーマパークをネルソン・シュワブが社長を務める会社に売却したときに経営陣の交代があり、ノルティングはゲーム・マネージャーとなった。

ノルティングは、 1981 年にニューヨーク州ダリエンにあるダリエン・レイク・ファン・カントリーに移り、副社長兼総支配人となった。ノルティングは、パークの最初のシーズンの終わりにパークに加わり、いくつかの乗り物がある広大なキャンプ・グラウンドという感じであったパークを、キャンプができるテーマパークに変えるプロジェクトを支援した。ノルティングが始めにしたことは、パークの名前からファン・カントリーを取り去り、パークの「あちこちで」徴収されていた料金体系を単純化したことだった。ノルティングは、ひとびとに、ダリエン・レイクは「単なるキャンプ・グラウンドではない」ことを訴えた。

1982 年に、ダリエン・レイクを作ったポール・シュナイダーがパークをファンタイム社に売却した。ファンタイム者の共同経営者の 1 人であるガスパー・ロココがダリエン・レイクの経営を引き受け、ノルティングが営業・マーケティング担当副社長となった。 1983 年のシーズンが終わるころ、ノルティングとその妻は、そろそろ多くの親戚が住んでいるシンシナティに帰りたいと感じた。「ファンタイム社の仕事は面白かったが、故郷に帰りたくなった。そのころ、コニー・アイランドがその再生のため新たな経営者を求めていると聞いた。私は面白い仕事だと思い、また、やりがいのある仕事をするなら、故郷でやってみたいと感じた」のだとノルティングは言う。

ノルティングは、大学を卒業して、 1970 年にマーガレットと結婚していたが、妻も故郷に帰ることを望んだ。「私たちは、二人とも、故郷に帰って、現地のそのような伝統ある施設の再建にかかわることはすばらしいと感じた。それは、 2 人にとって容易な選択ではなかった」とノルティングは回顧する。娘のローラが 1978 年に、そして息子のベンが 1982 年に生まれた。

娘も息子も、十代のときからコニー・アイランドで働き始めた。ローラは、厳格な菜食主義者だったが、会社のピクニックで「ハンバーガーを配るように頼まれて困ったことがあった」とノルティングは笑う。ローラは、大学卒業後、救急看護士として働き、その後医学校に入学した。ベンは、数年間、倉庫で働き、今はシンシナティで独立して、グラフィック・アーティストとなった。

 

コニー・アイランドの再建

ノルティングが 1984 年にコニー・アイランドに来たときには、大きな呼び物はサンライト・プールだった。ピクニック・グラウンドはほとんど利用されていず、あとはデリカテセン「ピクシー・プラザ」に置かれたチャンス・ライズ社製の乗り物を含めて、子供用の乗り物がいくつかあるだけだった。「それ以外は、荒れ果てた建物がたくさん放置されているだけだった」とノルティングは言う。ノルティングは、「どうしようもない建物」は取り壊し、将来使用可能なものはフェンスで囲った。

「私が雇われた目的は、コニー・アイランドを見て、まだ脈があるか、将来性は残っているかを判断するためだった」とノルティングは言う。タフト社は、コニー・アイランドだけを残して他のすべてのパークを売却した。そして、 1980 年代の始めに、 15 エーカーの土地をシンシナティ・シンフォニー・オーケストラに寄付した。オーケストラはそこに、交響楽を演奏するため、および他のコンサートを開催するための夏シーズン用のステージ「リバーベンド」を建設した。コニー・アイランドには、有料駐車場を経営する永久的な権利が与えられた。「これが貴重な収入源となり、パークに投資する資金を確保することができた」(同氏)。

リバーベンドは、 1984 年にオープンした。ノルティングは、演奏会に来た人たちが駐車場に車を止めた後パークを通って劇場に行くので、パークをできるだけきれいに整備する必要があると考えた。「 1984 から 1985 年にかけて、パークと劇場の敷地の間に違和感がなくなるように、建物の改修と土地の整備に多額の投資を行った。これで、多くの人にパークを知ってもらうことができた」とノルティングは言う。

1980 年代を通じて、ノルティングは新しい乗り物を追加し、人気があった舞踏ホ ― ルの「ムーンライト・ガーデンズ」を改修した。しかし、一番重要なことは、ひとびとの古いパークに対する印象を一新したことだった。タフト社は、 1991 年にパークをロン・ウォーカーに売却し、ウォーカーはパーク・リバー社を設立した。 1992 年に、サンライト・プールは 1925 年に建設されてから初めて改修され、さらに多くの乗り物が設置された。

パークが再び賑わいを取り戻し、多くの人がパーク内の道を散策するようになるに連れて、ノルティングは、次の段階に進む前に主なインフラを整備する必要があることに気付いた。上下水道が整備され、高圧の電気が引かれた。インフラの整備が 1990 年代半ばに終了し、パークの成長の土台ができあがった。そして、パークは成長し、今も成長を続けている。

コニー・アイランドの収益が増大し、利益率が向上すると、パーク・リバー社は近くで倒産しそうだった遊園地、アメリカーナ ( 旧名はル・ソーズヴィル ) を買い取った。ノルティングとそのチームは、コニー・アイランドと同様に、この遊園地を蘇らせるための野心的な計画を立てた。「私は、このパークが一石二鳥の好影響を与えると予想していた」とノルティングは言う。アメリカーナは 1996 年に買い取られ、そのインフラ整備と改修に「多額の資金」が投資された。

以前キングズ・アイランドの役員を務め、今ではシンシナティの通信会社、 MPR マーケティング社を所有しているビル・メフォードは、 1984 年にノルティングに初めて会い、その後コニー・アイランド、アメリカーナ、そしてレジャー・システムズに協力してきた。「ノルティングは本当のプロだ。彼はアメリカーナの経営を肩代わりし、豊富な経験に基づいて、あっという間に将来性のある遊園地に変える力を持っていたのだ。彼は、非常に強力なニッチ・アトラクションを作り出す能力が優れている」とメフォードは評している。

アメリカーナは、長い間休眠状態だったが、現在は再建途中で、 3 年以内に利益を生むはずだ。ロン・ウォーカーが 1997 年に亡くなると、その家族は事業をコニー・アイランドに集約する決心をした。アメリカーナは 1998 年に売りに出され、買い手が現れなかったので 2000 年に閉鎖された。そして、その後、売却された。

1988 年に、タフト社がまだコニー・アイランドを所有していたとき、同社はハンナ・バーベラのすべてのキャラクターの権利を保有していた。ジェリーストーン・パークスが売りに出されると、同社がライセンスを持っていたクマゴローとその仲間たちのキャラクターを取得する目的でタフト社がこれを買い取った。ウォーカーは、タフト社からコニー・アイランドを買い取った 2 年後の 1993 年にジェリーストーン・パークスを買い取り、キャンプ・グラウンドを所有、運営する目的でレジャー・システムズを設立した。ウォーカーは、ノルティングをその副会長に任命し、これがノルティングの現職だ。

 

将来の展望

ノルティングによれば、同氏とその配下のコニー・アイランド・チームはパークの第 3 次基本計画の「最終段階」を実行中だ。「私たちは、近いうちにすべての区域の概要を明確にし、製品オプションを指定する予定だ。ときどき、熱を入れすぎてパークの開発に過剰投資をしないように気をつけなければならない。私たちは、うまくやってきたし、今後とも、自分たちの事業がニッチで制約があることを忘れなければ、今後ともうまくやって行けると思う」とノルティングは心構えを語った。

ノルティングは、パークの確立された家族向けという志向に合わない乗り物を買いたい衝動に駆られることはないのだろうか。ノルティングは、「それは毎日だ」と言う。「いろいろなものを見て、夢を描くこともあるが、自分たちが与えられた任務を思い出せば、その夢は消えていく。そうとはいえ、パークは多くの可能性を秘めており、私たちは、進化し、変化し、成長している」とノルティングは言う。

ノルティングとそのスタッフが大きな成功を収めているのは、パークが賑わうシーズンを次第に長くしていることだ。春と秋に、アパラチアン・フェスティバルやシンシナティ・フラワー・ショーなどのイベントを開催している。リバーベンドでは 1 シーズンに 35 ないし 40 回のコンサートが開かれ、そのパーキング料金もパークにとって大きな収入源だ。

ノルティングは、現在、常設遊園地の国際的な業界組織である IAAPA の役員をしており、 IAAPA のメンバーシップ委員会、戦略企画委員会、および国際的提携タスクフォースのメンバーも務めてきた。ノルティングは、全米 RV パーク・キャンプ・グラウンド協会のさまざまな役職も歴任しており、現在はその役員を務めている。

ノルティングは、「少なくともあと 10 年は」この業界に身をおき、引退するまでコニー・アイランドの運営に携わりたいと希望している。「その後は、また何か別のことをしたい。何もしていない自分は考えられない」と自分を評している。


楽しい思い出作り

テーマパークとアトラクションの楽しさを高める食べ物

ロブ・エック

 

世界最大のチョコレート会社が運営するペンシルベニア州のハーシーパークに入場すると、スタッフの笑顔とチョコレートの甘い香りと、有名な 50 ガロンのケトルの中ではじけるケトルコーン ( 甘みのあるポップコーン ) が出迎えてくれる。パークの副支配人、ジョン・ローン氏は、このような昔からの小道具を入場ゲートの近くに配置する戦略が成功して多くの入場者を引き付けていると言う。そして、パークのゲートに置いたケトルコーンが来場者に前にパークで遊んだときの楽しい思い出を蘇らせ、また帰るときに 1 袋買いたいという気持ちにさせる。ローン氏によれば、「ケトルコーンの売り上げは、最後の 2 、 3 時間にパークを出るお客様に買っていただく量が、開園からそれまでの間に売れる量と同じくらいだ。」

食べ物には、楽しかった記憶を増長させる効果があるのだ。フード・サービス・マネージャーたちも、食べ物に関して観念上の価値が重要だという考えに同意する。では、そのような貴重な思い出を作り出す力がある食べ物を、どのようにしたら適正価格で提供できるだろうか。

パークとアトラクションの専門家や経営者は、何が有効な戦略かについてファンワールドと共通の見解を持っている。つまり、古くからある設備に目新しい要素を加えたり、ある製品を別の角度からアピールしたり、さらにはブレインストーミングによりまったく新しい呼び物を作り出したりすることなどだ。

 

記憶を呼び起こす手段

常設遊園地の世界最大の国際的な業界組織である IAAPA の最近の調査によると、 10 人のうち 8 人がファネルケーキ、アイスクリーム、ホットドッグ、綿あめ、ピザが好きだと答えているが、まったく驚くにはあたらない。この調査結果から、遊園地の入場者は、食べ物について決していい加減に考えていないことが明らかになった。皆、好き嫌いがはっきりしており、それが思い出作りに重要な役割を果たしている。多くの場合、それは昔からある伝統的な食べ物で、大昔から遊園地のメニューに入っているものだ。

知覚的な記憶に関する国際的な専門家、マーティン・リンドストローム氏は、遊園地には、郷愁を誘うような食べ物が欠かせないと言う。「パークに相応しくないものでなければ、古くからあるものほどよい。ひとびとは誘惑を受けたがっている、時間を遡って、現実とは違う世界にいると実感したいのだ」という意見だ。

リンドストローム 氏 によれば、食べものは、パークの「印象」作りに大きな役割を果たしており、またパーク自体の売り上げを伸ばすのにも役立つ。「私たちが集めた統計によれば、レストランは、来客に特定のにおいをかがせることにより売上を 29 % 延ばすことが可能だ」 ( 同氏 ) 。

ローン氏は、それを実際に経験している。「最新技術の製品を毎年作り出すことはできない」とローン氏は言う。「事業の 75 % を占めているのは、業界でごく基本的な施設だ。」しかし、このような基本的な施設が強力な効果を発揮するのだ。来場者たちがポップコーンの甘い香りをかぐと、それが記憶に残り、遊園地で遊び終えて帰途に着く前にケトルコーンの袋を買うのだとローン氏は言う。

複数の食べ物を組み合わせた「コンボミール」も、大きな改革を行わずに、パークの昔ながらの食べ物を生かす有効な手段の 1 つだ。マイケル・ギル氏は、いくつかの動物園と水族館のフリーランス・コンサルタントだ。ギル氏は、レストラン業界で複数の食品を組み合わせたコンボミールが流行り始めたのを見て、直ちに顧客企業に対し、メニューにコンボミールを入れるべきだと提案した。

アメリカとカナダに 5 つのテーマパークを持つパラマウント・パークスは、郷愁を誘う食べ物と郷愁を誘うテーマを組み合わせた。同社のユージン・ノートン副社長が力を入れている「ハッピー・デイズ・ダイナー」レストランは、その一例だ。ハッピー・デイズ・ダイナーでは、高級ハンバーガーとミルクセーキのセットが、「幸せな日々」の雰囲気の中でサーブされる。ノートン氏は、この同社独特のネーミングによりパラマウント・パークスでの食事が差別化されて、楽しい思い出となるのだと言う。

 

飲み放題システムの見直し

多くのパークと娯楽施設にとって、飲み物は最も重要な利益の源泉だ。どのパークも、さまざまな趣向を凝らして、飲み物の売上を増やそうとしている。

ジョージア州アトランタで開催された IAAPA アトラクションズ・エクスポ 2005 でのパネル会議で、ホノルルにあるラグーン・パークのテリー・ケイプナー氏は、自社のケースを紹介した。同社は、当初は現行のプログラムを変更することに躊躇したが、最近、思い切って 32 オンスの飲み放題プログラムを採用した。そして、そのためにしゃれたグラフィック付きの大きなマグを使い始めた。何人かのパーク経営者は、家族が 1 つのマグを買って飲みまわし、何度もお代わりするのではないかと心配を表明した。しかし、ケイプナー氏の試みではその心配は杞憂に終わった。実際には、 32 オンスの飲み物を買った客がお代わりをする回数は平均して 2 回で、このプログラムは大成功であった。ラグーン・パークでは、マグで飲み放題のプログラムを 3 年間続けた後、シーズンごとに 3 種類の色のマグを導入した。そうすると、多くの客がシーズンごとのお土産のマグをセットで買うようになった。

ハーシーでは、客がカップを持って何度でもパークに来ることができる飲み放題プログラムが好評だ。ハーシーでは、客が前シーズンだけではなく、その前のシーズンに買ったカップを持ってきても、パークに来てくれる限りお代わりが自由なのだ。「お客さまが私たちのパークにハーシーのロゴ入りのマグを持って来てくれる限り、喜んでいくらでも飲み物を注ぐ。すでに飲み放題プログラムを何年も実行している。飲み放題の価格は以前は 1 ドル 99 セントだったが、昨年 99 セントに引き下げた」とローン氏は説明する。ローン氏は、このプログラムの別の面を説明する。「当社では、お客様に無料でカップをご提供し、家族でソフトドリンクをシェアすることができる。このプログラムは、リピート客を増やす上で非常に効果的だった」と同氏は言う。

飲み放題プログラムのもう 1 つの効果的な方法は、カップの値が中身よりもはるかに価値があることを理解してもらうことだ。飲み放題用のさまざまなマグを提供して、効果を上げている施設もある。ノートン氏の説明を聞こう。「飲み放題プログラムはパラマウントのすべてのパークで成功している。私たちは、社内全体で、さまざまな機会を利用しようと試みている。当社では、街で売られている高級なお土産用カップと同品質の、通常のお土産品より高価なカップと、価格に厳しいお客様用のそれほど高くないカップとを提供している。キングズ・ドミニオンのカップとともにニコロデオン(キッズ・チャンネルのキャラクター)のカップも提供することで、お客様が価値を認めるカップを選択するオプションを提供することになる。」

この方法は、遊園地以外の場でも多く取り入れられている。ギル氏によれば、「大きな動物園の中には、すでに何年もお土産用マグカップを提供しているところがある。本格的な金型を使用した動物カップは、製造コストが 2 、 3 ドル高くなるが、それだけの付加価値を客が認めてくれる。この作戦は、非常に成功している。 32 オンスの飲み物を何杯も飲む客はほとんどいない」とのことだ。

オーストラリアのワーナー・ビレッジ・テーマパークは、 5 つのパークで構成されているが、飲み放題にサイズの異なる数種類のお土産用カップを提供して成功している。グループ・フード&ビバレッジ・マネージャーのデイビッド・ハウウェル氏によれば、同社はこのようなカップを用意して、単に客が自分の財布に適したカップを買えるようにしただけではなく、さらにこれらのカップをシー・ワールドやオーストラリアン・アウトバック・スペクタキュラーを含めた同社のすべてのパークで使用できるようにした。

 

ブランド ‘X’ の選択

次第に多くのパークが、有名ブランドのレストラン・チェーンを施設内に呼び込むようになっている。サブウェイのレ・ウィノグラド氏は、従来の独立した店舗とは別に、 5 千軒のサブウェイがテーマパーク、ガソリンスタンド、大学の構内、そして教会にも展開されていると言う。「当社は、通常ではスペース的に無理な場所でも当社のコンセプトを実現することに十分な経験がある」とウィノグラド氏は言う。その一例がハーシー・パークにあるサブウェイ・レストランだ。そこは、ローン氏が言うようにスペースが非常に限られている。ウィノグラド氏によれば、このレストランは、サブウェイの 1 日の平均売上高ではトップ・スリーに入る。現在では、米国にあるサブウェイの数はマクドナルドのフランチャイズを上回ることを考えると、これはすばらしい成果だと言える(マクドナルドの 2004 年の財務報告書によると、米国での店舗数は 13,673 点だが、ウィノグラド氏によれば同年のサブウェイの店舗数は 17,909 店だそうだ)。

多くの場合、ブランドに関連付けて想起される品質だけで十分に客を呼ぶことができる。「私たちは、コカコーラと共同で、またコネチカット州シャーロットにある本社が独自で多くの調査を行った。そして、よく知られているブランドの食べ物はお客様により多くの満足度を与えることが分かった」とノートン氏は言う。ブランドは全国的なものでも、たとえばオハイオ州シンシナティの近くのキングズ・アイランドのスカイ・ライン・チリのように地域的であってもかまわない。どちらの場合であっても、客はパークで地域的、あるいは全国的なブランドのレストランを見つけると、すぐにそこでどのような質の食事が提供されているのかを理解する。

提携する有名ブランドのレストランを決めるときには、いくつか考慮すべき点がある。ローンは、次のような点を検討するように勧める。

・ 大きなチェーンの フランチャイズとなるのか、またはサードパーティと組むのか。

・ ひとびとが見て喜ぶレストランとなるか。

・ 現在の 料金体系を維持できるか。

 

有名ブランドとの提携には、大きな利点があることは明らかだが、同時にいくつかの潜在的な欠点もある。リンドストローム氏は大きなファーストフード・チェーンとの協力は、パークにとって逆効果の場合もありうるという。「有名ブランドは、パークが持つ幻想の世界とテーマを打ち消してしまい、テーマパークの価値を奪ってしまうことがある。客がそのレストランを見ただけで、現実世界に引き戻されてしまうのだ」と同氏は指摘する。

ローン氏も、この考えに賛成で、次の点の検討も重要だと言う。つまり、レストランのブランドがパークのブランドと一体化しているかという点だ。分かりやすく説明するために、ローン氏はハーシーパークと全米に展開するアイスクリームショップ・チェーンのコールド・ストーン・クリーマリーの最近の提携関係の例を引く。コールド・ストーンは今年、ハーシーパークに店舗を開く。ローン氏によれば、同社は、マーケティング・チームと相談した結果、コールド・ストーンの社是やビジョンがハーシーパークのものと適合するという結論に達したのだと言う。ブランド、方針、ビジョンが似ていれば、パークとレストランは協力することが可能で、レストランの店舗開設によってパークのテーマが損なわれることもない。

 

不思議な組み合わせ : ファミリー・エンターテインメント・センター ( FEC )と レストランの統合

2 つのまったく異なるビジネス・モデルを統合することはピンと来ないかもしれないが、多くの FEC とレストランが、お互いに提携することに価値を見出している。両者の最終目的は、入場客にもっと多くの娯楽予算を自分の施設で使ってもらいたいということだ。では、 FEC の経営者は、どのようにしてこの違う種類のビジネスを調和させて利益の増大を図るのだろうか。

カリフォルニアにあるハイシ・ファミリー・ファンセンターズのコート・ハイシ氏は、自分の FEC にブルウィンクルのレストランを呼び込んだので、すでに経験者だ。同氏は、 FEC の枠内でのレストラン事業の重要性を理解していない FEC 経営者は、重要な点を見過ごしてしまうことがあると言う。同氏は次のように説明する。「現在の FEC には、以前よりもはるかに良質の食べ物が重要だ。なぜならば、毎年、 FEC で多くのグループ行事や誕生パーティが開かれるからだ。 FEC が成長するためには、ケータリングを効率的に行えるレストランと、衝動買いを誘うスナックバーが必要だ。しかし、そのような外食サービスを FEC に呼び込むことは決して容易ではない。」

「食べ物が目当ての客を呼び寄せるために、パークとは別のイメージを作り出さなければならない」と同氏は言う。そして、「 FEC のビジネスは、シーズンにより来客数が大きく変動し、週末に混むが、よいレストランを維持するには、シェフやサービス・スタッフが毎日常駐していなければならないという問題がある。多くの客を平日のランチやディナーに呼び寄せようと思ったら、人々がパークをゴーカートやミニゴルフではなく、良質の食事を提供するレストランと考えるようにならなければならない」と同氏は付け加えた。

このメッセージを市場に伝えるために、ハイシ氏は複数のプロモーションとテレビ広告を組み合わせた。新しいレストランのテーマを「空飛ぶロッキーとブルウィンクル」のキャラクターとするための権利を獲得した後、同氏はこのレストランの宣伝活動を開始した。「本当に、お客様に食事をするために来てもらいたかったのだ。ブルウィンクルを施設の柱として売り込む手段として、クーポンとテレビを主体としたマーケティングを行った。 2 枚から 4 枚のクーポンのうち、少なくとも 1 枚はブルウィンクル用とした」とハイシ氏は言う。誕生日パーティの客を呼び寄せるためには、テレビ広告を主体とすることとし、ケーブル・テレビでキッズ・チャンネルのニコロデオンとカーツーン・ネットワークを利用した。これらの広告では、施設の中のレストランに焦点を当てた。

このトレンドをよく理解している別の会社に、オクラホマ州タルサに本社があるインクレディブル・ピザ社がある。 2002 年に、リック・バースネスと妻のシェリルがスプリングフィールドにインクレディブル・ピザ社を設立し、レストランと FEC を組み合わせた最初の施設をオープンした。それ以来、同社は大きく発展した。同社は現在は 5 つのレストランを持つチェーンで、 2006 年に新しく 5 店舗の開設を予定しており、今後の 3 年間でさらに 16 店を増設する計画だ。トレーニング部長のドン・ポトヴィン氏は、成功の秘訣は、まず子供を持つ両親が安心する良質のレストランを開き、次に子供が喜ぶゲームコーナーを追加することだと言う。

ご家族のお客さまが店に入ると、まずバイキングが目に入る、と同氏は説明する。また、 FEC に家族で来た客の中には、まずゲームコーナーのまばゆい光が目に入ると困ってしまう親もいるのだと言う。「子供たちは、それぞれ別の方向に親の手を引っ張り、すぐにゲームで遊ぼうとする。当社のレストランでは、まずバイキング・コーナーに行くようにレイアウトが作られているので、家族客は楽しい、テーマがはっきりした雰囲気で食事を楽しんだ後、ゲームコーナーに向かう。多くの家族は、同社のレストランに来ると 2 回食事をする。たとえばランチを食べに来た家族は、ディナーも食べていくと言う。したがって、家族客は 4 ~ 6 時間レストランにいることになり、これは多くの FEC で客が過ごす平均時間の 2 倍の時間だ」とポトヴィン氏は説明する。

同氏によれば、インクレディブル・ピザは総売り上げの 50 % を食事のサービスから上げている。各施設には 5 つのダイニング・ルームがあり、 700 人の客を収容できる。


驚嘆に値する迷路

アドリアン・フィッシャーは、自分が制作する迷路は、脳の回転に役立つだけではなく、心のリフレッシュにも効果があると言う。

ジェレミー・スクールフィールド

 

アドリアン・フィッシャーは、人々の生死を左右する職業が重要であることは知っている。父親がイングランド南部のドーセット州で開業医をしていたので、人々の病気を治すということがどういうことかをつぶさに見て育った。しかし、フィッシャーは父親の後を継がなかった。少なくとも、常識的な見方では、そうしなかった。フィッシャーは、患者を救うための医薬を学ぶ代わりに、迷路にはまってしまった。

英国に本社を置くアドリアン・フィッシャー・メイジズ社 ( www.fishermazes.com ) の創設者で CEO のフィッシャーは、すでに 30 年以上人間が中を通る迷路の作成に携わっている。同氏の作品は、世界中で楽しまれており、主要市場の米国から、環太平洋地域、ヨーロッパ、そしてそれ以外の地域でも親しまれている。同氏は、迷路パズルを 1 つの産業と考えており、家族を離散させる恐れがある苦労を乗り切るための、生活の糧だと信じている。

「家庭の半分は崩壊の危機に面しており、単に家族がいっしょに過ごす時間が少ないことがその原因であることが多い」とフィッシャーは言う。「夫は会社勤めをしており、妻も会社勤めをしている。面倒を見てもらえない子供たちは、あちこちをうろついている」ような家族が多い。

「そのような家族に、何か家族みんなで楽しめるものを提供すれば、その家族はたぶん数週間で初めての特別な時間を持つことになる。私は、それが家族の絆を強めるための秘訣だと思う。自分だけのことをやめて、冷静になって、家族で楽しいときをű