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Japanese 動き続けて ケニーウッドのアンディ・クインはコミュニティとパークの架け橋作りに余念のない毎日 ティム・オブライエン ( Tim O ’ Brien ) 著 アンディ・クイン ( Andy Quinn ) は、ケニーウッド・エンターテイメントのコミュニティ関係責任者として熱心に働き、熱心にロビー活動をし、熱心に研究し、そしてその過程で真の「道路」博士となった。 「高速道路の建設プロジェクトはケニーウッドにとって重要な意味を持ちます」とクインは『ファンワールド』に語る。「ケニーウッド・パークは、ピッツバーグ周辺ではとても有名だし、入場者数も多い。でも、パークに来た人たちは必ず、来るまでが大変だったと言いますよ。客をパークまで呼び込むのは、大きな課題でした。」 クインは、コミュニティや政府関連のいろいろな活動を行ってきたが、中でも都市圏計画機構 ( MPO ) の理事会への参加は、ケニーウッドの長期的成長が新しい高速道路に依存していることを考えれば欠くことのできない役割と言える。クインは言う。「ペンシルバニア州では、 MPO の承認なしでは何も建設できませんからね。」 今年の初め、ウェストバージニアとピッツバーグ地域を結ぶ新しいインターチェンジの必要性を強調するためにケニーウッドの役員たちが発表した調査報告によれば、ケニーウッドは、ペンシルバニア西部で最大の娯楽会社として年間 1 億 3600 万ドルの経済効果を持つ。比較のために他の例を挙げてみると、メジャーリーグの野球チームであるピッツバーグ・パイレーツが 1 億 2500 万ドル、プロフットボールリーグのピッツバーグ・スティーラーズが 8500 万ドルだ。ケニーウッド・パークは、同時に、合計およそ 25 エーカー ( 10 万平米 ) の隣接地 2 区画に約 2600 万ドルを投じて、ローラーコースターの追加やインドア ウォーターパーク リゾートの建設を含む将来の拡張を準備していることも発表した。 しかし、拡張計画はすべてモン・ファーエット ハイウェイの建設に左右される。ケニーウッドの駐車場から 150 メートル弱の場所に出口ランプが建設される予定で、クインは、高速道路の完成後、年間の入場者数が 70 万人増えると見積もっている。 交通戦士 パークと州政府の連絡窓口であるクインは、ピッツバーグから州都のハリスバーグまで往復 640 キロの旅を月に何度もこなしている。ハリスバーグでは、州の娯楽税の廃止を求めて積極的な働きかけを続けてきた。実現すれば、ペンシルバニアにある全娯楽施設が恩恵を受けるはずだ。IAAPA政府関係委員会の委員長を務めるクインは、IAAPA政府関係部門と理事会に対し、連邦政府と州政府両方についての最新の傾向を報告する役目を果たしている。また、ペンシルバニア州議会やワシントンDCの連邦議会を頻繁に訪れては、娯楽産業に対して影響力を持つ議員にも情報を提供している。 「アンディは小規模のパーク出身なので、その経験が政府関連の活動でとても役に立っています。娯楽産業に対して愛情と深い知識を持っているし、能力も優れていますが、それだけでなく、地域における政府関係プログラムのニーズについて膨大な知識があるのです」と IAAPA 政府関係部門の副社長、ランディ・デイビス ( Randy Davis ) は言います。「彼は政府の仕組みを理解しているし、議員の決定に影響を与えるための方法を心得ています。」デイビスによれば、クインは、 IAAPA 委員会でも将来に対する使命の「定義に貢献した」そうだ。 ペンシルバニア州パーク・アトラクション協会 ( PAPA ) でも活躍しているクインは、 1980 年半ばから理事会に参加し、 1991 ~ 1992 年には理事長を務めた。現在は、PAPA政府関係委員会の委員長である。 クインの履歴書を見ると、政府関連活動こそが彼の得意分野だと思える。 「アンディは、穏健で人に好かれる性格で、私が知っている限りではとても冷静な人です。どんなことにも動じない人ですね」と政府関係委員会のメンバーでメリーランド州アナポリスでピアース法律事務所を経営する産業法律家、ウェイン・ピアース ( Wayne Pierce ) は言う。「動き回っているのが大好きですが、それでいてプロフェッショナルな、紳士的な作法を忘れません。まさに政治の世界に肌が合っていますね。」 家族の遺産 クインの家は、曽祖父の A.S. マクスウィガン ( A.S. McSwigan ) から数えて 4 代にわたってケニーウッドで働いている。 1906 年、マクスウィガンは、 F.W. ヘニンガー ( F.W. Henninger ) と共同でモノンガヒラ市電会社から当時設立 8 年 を迎えていたパークを買い取った。以来、この 2 つの家族がパークを所有・経営している。 ( クインの父親、トムは、この職業が好きになれず、フルタイムでパークの仕事をしたのは 1 年だけだった。 ) アンディ・クインは、ウェストバージニアのホイーリング・カレッジに在学中、学費の足しにするために夏休みをケニーウッドでのアルバイトに費やした。 1975 年にビジネス学士を取得して大学を卒業したが、自分にどんな職業が向いているかは皆目見当がつかなかった。父親から、マクスウィガン家の側には 10 年近く、パークで働く者が出ていないと言われ、家業を継いではどうかと勧められる。 「ずるいですよね」とクインは笑いながら回想する。「親父はこう言いました。アンディ、とにかくパークに入って、俺のために5年働いてくれ。5年経ったら他のどんな仕事に移ってもいい、と。当然ですが、5年の間に私は結婚して家庭持ちになりましたから、仕事を辞めることもできません。パークの仕事にも夢中になっていましたし。それを父は最初からわかっていたのです。はめられた感じですが、後から考えればありがたいことですよ。」 クインによれば、今日も共同所有者であるヘニンガー家とマクスウィガン一族は、どちらも「うちがパークの所有者だ」ということを強調しないように努めている。「自分はパークに勤めている、というのが私の考え方です。もちろんクビにはなりにくいでしょうけれども、それでも自分は従業員です。」クインがマクスウィガン家の一員であることが公に発表されたことはないが、同僚たちは承知している。現在、彼の息子のうち 2 人がパークで働いている。 5 世代目だ。身内びいきが起きないよう、息子にもアンディと呼ばせている。 クインが言うには、一族の一員であることには利点もあるが、欠点もある。「家族だというだけで特別な目で見られていますから、どうしても 110 パーセントの仕事をしなければなりません。同僚からはリーダーのように扱われ、手本として真似される存在です。ごみを拾ったり、入場客と話したりする間も、だらければ同僚が気付いて自分もだらけていいのだと受け止めますから。」 クインは、ケニーウッドで長年の間にさまざまな職に就いたことが、パークの後の世代のために役に立つと「確信して」いる。「 1990 年代に家族経営のパークを買い占めていたプレミア・パークスが、すごい申し出をしてきたことがあります。提示が非常に良かったので、私たちには受託者として役員会にかける責任がありました。」最終的には一族のプライドがお金の魅力に勝ち、パークを手元に残そうと全員が意欲を新たにする。「もちろん、意欲は3年しかもちませんでしたが」とクインは笑う。 実際、彼には当時、悟るところがあったのだ。「売却を考えていると聞いた一番上の息子のライアンが、非常に心を打たれる、納得のいくことを言ったのです。私の方を見て、” お父さん、僕らはパークを買ったわけじゃないんだから、売るわけにもいかないよ ” って。」 家族調整 大学を出てパークに就職したクインは、ほどなく、パークでの仕事が職業というよりはライフスタイルに近いことに気付く。「完全に受け入れることができなければ切り抜けていけないタイプの仕事です」と彼は言う。「年端の行かない男にとっては大変な責任を負うことであり、若い家庭にとっては大きな損害でした。他の人たちは 7 月に夏休みを取っているのに、私たちは 9 月か 10 月に子供たちを学校から連れ戻して休暇に出かけなければなりませんでした。」 パーク産業に従事する多くの家庭とは違い、クイン家はあまりパークで長い時間を過ごすことがなかった。「子供たちが来るのは年に 2 回でしたね。春にある学校の遠足と、秋の新学期キャンペーンの時です。私にとってパークは仕事場でした。夏の間じゅう、オフィスで子供と妻を遊ばせたい人がいますか?」 クインは、 1976 年に大学時代からのガールフレンド、アン・マティソン ( Anne Mathison ) と結婚し、ライアン、 J.T. 、パットの 3 人の息子をもうけた。 2004 年 4 月、クインと息子たちは、アンを癌で失う。「それは私たち家族と友人にとって非常に悲しい時期でした」とクインは言う。 大学在籍中、クインは、夏休みに駐車場の係員やライドの運転員として働いた。フルタイムの社員となってからは、食品サービスを担当し、レストラン、カフェテリア、社員用カフェテリア、宴会場の 4 つの施設でマネージャを務めた。 1982 年、パークは、社員ピクニックを売り込むセールスマンを必要としていた。「私は口達者なアイルランド人だから抜擢されたのです」とクインは言う。 当時は、オフィスに座っていると仕事をしていないと思われたらしい。「それまでのセールスマンというのは、地域中を駆け回って、売り込みの電話をかけ、良いときで 1 日に 4 ~ 5 件の見込み客を訪問する、というスタイルでした。実際に会うとなると 4 ~ 5 人が精一杯ですが、電話なら 40 ~ 50 人と話せます。」彼はコール システムを設置し、すでに約束が取れた場合だけ出かけていく方法を採ったが、当時のケニーウッドの重役たちからはなかなか理解が得られなかった。「だってそうでしょう。難しいセールスではありませんよ。企業はケニーウッドで社員ピクニックをしたいか、したくないか、どちらかしかありませんから、電話で話しただけですぐに確かめることができました。」 クインの方法は効率が良く、他の重役たちが納得するまでに時間はかからなかった。「最初の年だけで新しい企業顧客を 35 件獲得」したクインは、 3 年間、セールスに専念する。当時ケニーウッドの社長だったカール・ヒューズ ( Carl Hughes ) は、運営を除くすべての業務の責任者として、広報やプロモーションにも関わっていた。コミュニケーションの部門を手放す必要を感じたヒューズは、それを 1985 年にクインに譲る。 クインによれば、「楽しくてクリエイティブな仕事でした。その頃、パークは割引を提供していませんでしたが、ゼリーをいっぱいに流し 込んだ プールの中から新車の鍵を探し出す ” ゼリー ジャンプ “ のような催し物を企画して客を呼び込みました。」(ちなみにクインは、企画を担当しただけではなく、当日は “ 朝早く ” パーク入りしてゼリー作りに精を出したそうだ。) 広報やプロモーションから、クインの責任分野は次第に広告の仕事へ移っていく。 1982 年、ケニーウッドが近くにあるアイドルワイルド・パークを買収し、 1989 年には、地域発のウォーターパークを建設する。1990年にはクインは3つのパークすべてでマーケティングと広告の主任となった。クインによると、1992年に「各パークから1人ずつ、マーケティング、広報、広告を監督する責任者を選び、私は法人向けセールスに戻って大企業と仕事をするようになりました。」 コミュニティや政府関連の活動に携わるようになったのは、その頃のことだ。パークは地域でも目立つ存在だったため、ケニーウッドの社員にコミュニティや他の組織の理事会などで活躍して欲しいという要請は多数あった。そこでコミュニティ担当として指名された役員がクインだった。 1997 年には、 IAAPA への参加を考えるようになる。「カール ( ヒューズ ) が、娯楽産業と直接関係のない委員会からは離れて、企業団体に参加することを勧めてくれたのです」とクインは言う。 1998 年までに、地元で参加していた 10 の委員会の任期を終了し、 IAAPA の理事会に選任された。 クインはパーク内の仕事を片っ端から経験していたが、皮肉なことに会社を経営しようという野望が湧いたことはなかった。「自分は家族の一員だという意識がありましたから、別の方法でパークの方向に影響できると考えていたのです」と彼は言う。「自分が得意なことは何か、どこで貢献できるかを把握していたし、常にその領域内にとどまるようにしていました。」8 年後、 52 歳のクインは、 IAAPA に飛び込んで良かったと思っている。「 5 年ぐらい経ったら、ケニーウッドの仕事を少し減らして IAAPA に力を注ぎ、トップを目指したいと考えています」と彼は『ファンワールド』に語り、自分がなぜ世界最大の娯楽産業団体で良き指導者となり得るかを付け加えた。「私の経歴は、この業界で活躍している多くの人と違っているので、新鮮なアイデアや経験を持ち込めると思います。」 それまでは、ローラーコースターとメリーゴーラウンドと政治がクインのすべてだ。「フロリダキーズで美しい 40 フィートのボートに住み、夏になったら北へと航海するのが私の夢です。実現できると確信しているのですが、いつになるかはわかりませんね。」 圧倒的興奮が待ち受ける 新しい世代を代表する若き設計者たちがアトラクションに輝く未来をもたらす キース・ミラー ( Keith Miller ) 著 誰もが、テーマパークや遊園地、動物園、博物館のアトラクションを見ながら、その裏に潜む天才的才能に感嘆させられたことがあるだろう。本物のようなアニマトロニクスから静止キャラクター、緻密な彫像、息を呑むスリル ライド、そして絶妙なテーマ作りまで、私たちは優れた創造の魔術に魅了される。しかし、こういったすばらしい作品を手がける人々が、何をきっかけにこの世界に入り、どこで技術を学び、どこからアイデアを得るのか、考えてみたことがあるだろうか。 新進設計者の中には、子供の頃にテーマパークや動物園、博物館で経験した興奮が忘れられずにこの職業に就いた人もいる。また、映画やビデオゲーム、あるいは学校で習った何かがきっかけになったという人もいる。しかし全員に共通しているのは、その燃えるような熱意と才能を、一般人が楽しめるように、具体的な形にするための技術を学ぶ必要があった点だ。 娯楽産業のアトラクションを設計する専門技術を若者に教えている学校の 1 つが、ペンシルバニア州にあるアート・インスティテュート・オブ・ピッツバーグ ( AIP ) だ。創立から 80 年以上を経ているこの学校が、娯楽産業用の設計技術に力を入れるようになったのは 1980 年代のことである。工業デザイン技術課程の学生たちは、設計プロジェクトの中でコンセプト作りから模型制作、試作品のプレゼンテーションまでを習得する。 「現在の工業デザイン学科の主任が、 1988 年に 3D 設計や 3D 模型制作に対する需要に気付いたのですが、工業デザインそのものが必要とは思っていませんでした」と工業デザイン一般教養学科主任、ジム・イェディナック ( Jim Yedinak ) は言います。「それが徐々に現在のような、工業デザインの理学士号というカリキュラムに発展したのです。模型制作と組立加工を含めた準学士号も用意されています。」 AIP は、イェディナックによるとテーマ作りに焦点を置いているという環境デザイン クラス、そして学科の特殊効果コースの一部である 3 つの機械生物クラス、 2 つの機械マスク クラスを提供している。「本当によくできた機械生物を作ろうとしたら、 2 ~ 3 学期はかかります」とイェディナックは言う。「とにかく時間のかかる作業なのです。」しかし授業は、設計の仕組みについてだけではない。「マスクや生物は、必ずストーリーに結び付けるようにしています」とイェディナックは付け加えた。 卒業を控えた学生たちは、工業デザイン技術科担当の就職アドバイザー、クリスティン・ミラー ( Kristin Miller ) のところへ相談に行く。「 1 学期に 20 ~ 25 人の学生が特殊効果と製品デザインの学科を卒業し、就職口を探します」と彼女は言う。「一部の学生は、地元の特殊効果制作会社でインターンとして働くチャンスを与えられます。」 イェディナックは、工業デザイン学科の学生が担う主な役割の 1 つは、硬質な機械に表情を持たせることだと考えている。「たとえば機械工学士は、ロボットを作ることはできても、それを人間のように見せかけることはできません。安全に機能するロボットができたら、それを工業デザイナーに渡し、工業デザイナーが外観を整えます。世界で使用されている製造原料の 95 パーセントは、機械的負担を支えることを目的としています。見かけのために使われるのは残りの5パーセントです。」 ここで、 5 人の若き有能設計者を紹介しよう。全員が 20 代の前半だ。すでに娯楽産業で働いている人もいれば、まだ勉強中、または卒業したてで次のステップの準備中という人もいる。設計の仕事に興味を持つようになった経緯、才能を生かしてどんな仕事をしたいか、何にアイデアを刺激されるかなどを語ってもらった。 ロバート・ベネット ( Robert Bennett ) ロバート・ベネットは、子供の頃からアニマトロニクスの空想にふけっていた。「家族でディズニーやシックス・フラッグズに行きましたが、どこへ行ってもアニマトロニクスに夢中になりました」とベネットは言う。「でも真剣に興味を持つようになったのは、『ジュラシック・パーク』を観たときです。いろいろな材料を使って自分なりに実験を始めたら家が壊れそうになってしまい、大学でやることにしたんです。人生をもてあます高校生、というタイプではありませんでしたね。」 21 歳のベネットは、シーワールドとディズニーの仕事をした経験があり、 1 月からはフロリダ州オーランドの KX International で働いている。これは、テーマパークや動物園、博物館、その他の娯楽施設向けにカスタム注文のアニマトロニクス、小道具、テーマ作りなどを手がける会社だ。ベネットは「今、動物園用のアニマトロニクスとレインフォレスト・カフェのための動物を作っているところです」と打ち明ける。 2004 年にアート・インスティテュート・オブ・ピッツバーグを卒業したベネットは、学校では CAD ( コンピュータ支援設計 ) システムや最新の 3D 模型設計プログラムである Form-Z の使い方を勉強したと話す。「それから、機械生物 1 と 2 のクラスでは、生物の造形や成形の方法、サーボを使って動かす方法を習いました。」 両親や友人たちの評判を聞くと、ベネットは答えた。「大評判ですよ。仕事の詳しい内容はわかっていませんが、最高にかっこいい仕事だと思っているみたいです。ほとんどの人は、毎日ありふれた仕事をしていますが、僕は多分お金がもらえなくてもこの仕事を選んでいるだろうと思います。 僕がどこかの倉庫で何か作りますよね、たとえば泣いているクリーチャーとか、ハッピーなやつとか。それを何年も何年も大勢の人たちが見て、楽しんでくれるのがすごいと思います。子供たちには、どうしても会ってみたいというキャラクターがあるものです。僕らは、その夢を叶えることができるのです。」ベネットの目標の1つは、アニマトロニクスで「リアルな」恐竜を作り、スムーズな動きをさせることだ。「自分の会社を持って、責任者になりたいですね。テーマパーク向けに大きなプロジェクトを手がけてみたいです。」 「実社会」で仕事を始めても、ベネットの情熱は冷めていない。「ここ(オーランド)に引っ越して来てから、毎日のようにパークに出かけています。一番好きなのは “ スペースシップ・アース ” ( エプコット ) ですが、 " ミイラの復讐 ” ( ユニバーサル・オーランド ) もいい。あと、 ” エベレスト探検 ” (ディズニーのアニマル・キングダム)の雪男も今から楽しみです。」 ダン・カーニッツ(Dan Kanitz) 「ショッピング モールや会社の玄関に、ロボットが置かれていますよね。」そのミステリアスな姿こそ、 22 歳のダニー・カーニッツが私たちに贈る未来なのだ。アート・インスティテュート・オブ・ピッツバーグを最近卒業したカーニッツは、工業デザインの学士号を取得した。専門は特殊効果である。 他の若き設計者と同じように、カーニッツも遊園地やテーマパークでアトラクションの世界に興味を持つようになった。「 Cedar Point やユニバーサル・スタジオのアトラクションを見て、かっこいいなと思いました。それから『スター・ウォーズ』などの映画にも影響されました。」 しかし彼の最大の関心はアニマトロニクスにある。「小さい頃からずっとラジコン カーが趣味なので、アニマトロニクスに関してはセンスがあるんです」と彼は断言する。「学校では、機械マスクについて勉強しました。人の頭のどこに機械を通すか、頭をどうやって成形し、どうやってサーボを組み込むか、などです。」 カーニッツは、アニマトロニクスにはまだまだ未解決の問題がたくさんあると言う。「ニューマチックの音がうるさすぎるので、その点を改善する方法をいくつか考えたりしています。」彼にとって一番面白い点は、どうやって動いているのかが一般の人にはまったくわからない物を作っていることだと言う。「一番難しい点は仕組みの設計で、系統的に考える能力が必要です。」 カーニッツは、ピッツバーグのカーネギー・メロン大学から修士課程への入学許可を受けたが、勉強を続けるべきか、オハイオ州シンシナティの近くにある創造博物館からの採用通知の方を採るべきか、思案している最中だ。彼は「アニマトロニクスの仕事さえできれば、大学でも会社でもどこでもいいんです」と付け加えた。 ジェイソン・バッティン(Jason Battin) ジェイソン・バッティンは、 12 月にアート・インスティテュート・オブ・ピッツバーグを卒業する学生で、すでに新型ローラーコースターの設計コンセプトを思い描いている。「水中コースターのアイデアなんです。技術面の細かい点はまだ完成していませんが、コースターは地上でスタートしてプレキシグラス製のトンネルを通って水中に引き込まれます。乗客は仰向けの姿勢で、水面に特殊効果が映し出されます。乗っている人は濡れないまま、水が飛ぶように過ぎて行くのです。」 21 歳のバッティンは、 " ミイラの復讐 ” のようなライドの斬新でクリエイティブなアイデアに刺激を受けると言う。AIPで勉強した中でも重要なのは、設計者は孤立状態で物を作ってはいけないということだ。「常に外に出て、周りの物に目をやる必要があります」と彼は強調する。「部屋の中に座って何もインプットのない状態で設計すると、不自然な、不完全なものになってしまいます。」 バッティンは、環境デザイン クラスに参加し、パーク内の小さなキオスクなどの展示設計を手がけた。さまざまな活動を通して学んだ教訓の中に、ライドの設計者の多くが共感できるものが 1 つある。「設計で一番難しい部分は、人間工学です。ライドは、世界中の誰が来ても乗れるようにしなければなりませんから。」 目標について聞くと、バッティンは答えた。「建築を勉強して、(仕事の上で)トップになりたいです。それから是非、外でする仕事に就きたいですね。」 モー・ナスル(Mo Nasr) 「小さい頃からローラーコースターが大好きでした」と言うのは、ケンタッキー州ヘブロンの Great Coasters International でライド エンジニアとして働く 23 歳のモー・ナスル。「大きくなってからは、ディズニーランドのマジック・マウンテンや、ナッツ・ベリー・ファームに行きました。ローラーコースターの中でも、木とスチールを使ったモデルが好きです。スリルが控えめで。 “ 外に出た ” 感覚がありながら、レールと一体感があります。」 ナスルは、エール大学で機械工学の学士号、 MIT で構造工学の修士号を取得している。単位を取った科目の中で仕事に役立っているのは、スチール設計とコンクリート設計、それに耐震と耐風を考慮した設計を教わった “ 動力学 ” だそうだ。 ナスルは言う。「今、図面を調査しているところです。設計の途中で、レールが交差する橋の部分を検証しているのです。手がけているのは木製のコースター 2 台で、 1 台はアメリカ国内、もう 1 台はヨーロッパに設置されるものです。」 設計プロセスで一番難しい点は何かと聞くと、ナスルは答えた。「まだ(Great Coastersに)勤め始めてから1か月しか経っていないので、自分の仕事の成果を実際に目にしていないことが一番辛いです。プロジェクトの1つが完成するのを心待ちにしています。」 まだ業界で実現されていない新しい設計コンセプトを開発したり、思い描いたりしているかという質問には、悲しげに答えた。「すごいアイデアが2つあったのですが、どちらも実現されてしまいました。コースターの車両をレールの横に設置するアイデアは、 ” X ” (マジック・マウンテン)でやられてしまったし、急激なストップとスタートを繰り返すアイデアは “ ミイラの復讐 ” で実現されてしまいました。」 しかしそれでも彼の夢や目標が尽きたわけではない。「いつか自分の会社かパークを持ちたいですね。」 ショーン・マッキニー(Shawn McKinney) ショーン・マッキニーは、子供の頃に行った Cedar Point や、映画、人形師のジム・ヘンソンなどに影響されて娯楽産業への興味が沸いたと言う。「デザインに興味があって、とにかく彫刻作りに夢中になりました。リアルなルックスや、変わった動き、新しいテクノロジーを生み出すのが一番楽しいですね。」 21 歳のマッキニーは、 2004 年 9 月に AIP の工業デザイン学科を卒業し、現在、ベネットと共にオーランドの KX International でアニマトロニクス アーティストとして働いている。「僕らは 3 週間前からオランウータンの母子を作っているのですが、すばらしい出来栄えですよ。動きが 10 から 15 ぐらいあって、とにかくリアルです。自分でもよくできたと思っています。」 いつかジム・ヘンソンの会社で働いてみたいと言うマッキニーは、映画や雑誌、動物園の動物などを研究材料にしているそうだ。 やはりオーランドという土地柄を利用し、地域中のテーマパークで優れたアトラクションを存分に楽しんでいる。「初めて “ ツリー・オブ・ライフ ” ( ディズニーのアニマル・キングダム ) を見たときはびっくりしましたよ」とマッキニーは興奮気味に語る。「操り人形とアニマトロニクスが格段に進歩していることに驚かされますね。」 友人や家族は、この職業について説明されても初めはぴんと来ないらしい。「何のことかわからないって感じです」とマッキニーは皮肉っぽく言う。「仕方がないから“ へー、そうなの、すごいね ” とか言うんです。そこで写真を見せると、皆びっくりしますよ。」 面接官 ウォルト・ディズニー・ワールドのエンターテイメント人材管理部マネージャ、ジーン・コロンバスは、ディズニーの若手社員にハリウッドやマジック・キングダムでの経験を伝える トリシア・ヴィータ ( Tricia Vita ) 著 ウォルト・ディズニー・ワールドの社員の間で非常に人気があるエンターテイメント人材管理部マネージャ、ジーン・コロンバス ( Gene Columbus ) は、優れた話術と 面接 のうまさで伝説的な存在だ。 35 年にわたってディズニーで働き、その 1 分 1 分を楽しんでいることが見て取れるコロンバスによれば、「皆がおだてて創造性とかリーダーシップ、ディズニーの遺産などについて話してくれと言うんです。」コロンバスがインターンや新しいマネージャなどにして聞かせる話には、彼自身の経験が凝縮されている。彼の面接は、「授業のようであり、カウンセリングのようであり、ビジネス教室のようであり、新しい友達に知り合うような」と言うアーティスト・リレーションズのグレッグ・ベル ( Greg Bell ) は、採用された結果、コロンバスの部署で 2 年働くことができたのを幸運だと思っている。 学校に逆戻り エンターテイメントかオペレーションの部署で「ジーン・コロンバス学校」について聞いて回れば、きっと、笑いながら「私も卒業生です」という答えが返ってくるだろう。「学校」とは、面接試験に組み込まれた 1 時間のローラーコースター テストで、駐車場で 3 人がロールプレイを行うシチュエーションから始まる。「私はとにかくたくさんの人を面接します。多分、数千人にのぼると思います。そのうち数百人が採用されました。中には、面接の間に自分の意思決定能力がどんなものかがわかり、勉強になった、という人もいます」と言うコロンバスは、オーランドにやって来た 1977 年、気張って書かれた履歴書以外のものを評価できなかった当時の採用方法を廃止する。「さんざんな結果だったとがっかりしながら家に帰ったら会社から電話が来て、すばらしい結果だったと言われて採用通知を受けた、という人もいます。」 コロンバスの上司でエンターテイメント人材・衣装管理部の副社長、リッチ・テイラー ( Rich Taylor ) は、 25 年前にステージ マネージャとしてコロンバスに採用された。テイラーは、マジック・キングダムのメインストリートにある階上の狭い一室に部署全体が詰め込まれていた 25 年前の日々を回想する。「ジーンは、エンターテイナーでエンターテイメントの専門家であるだけでなく、常に先生でもありました。」ステージ マネージャは当時6人だけで、ジーンがその主任だった。テイラーによれば、「ジーンは社員の指導やアドバイスに時間を惜しまなかったし、それは今も変わっていません。」 テイラーとベルは、どちらもコロンバスのことをエンターテイメント部の「ヨーダ」だと言う。エンターテイメント部は、今ではキャストが5,000人、正社員が100人、臨時社員が40人にコンサルタントも多数抱えている。「就職に関連する相談は、皆、ジーンのところに持って行きますが、彼は外部で優秀な人を見つけるのが上手だし、誰がどの部署に合うかがすぐに判断できるのです」とテイラーは付け加える。「それに、とても誠実に人に接していますね。やっていることがどうも合っていないようだったら、ジーンがその豊富な経験に基づいて正しい方向に導いてくれます。意思決定を代わりにやってくれるのではなく、自分にとって最適な決定とは何かを気付かせてくれるのです。」 自分を信じる ジーン・コロンバスのスケジュールを見ると、水曜の午前は、オーランドにあるフロリダ中央大学 ( UCF ) 演劇学科のインターンたちのために予約されている。コロンバスは、 UCF の助教授として舞台監督を教えているのだ。 ディズニー、大学、演劇会議。コロンバスが若者たちにアドバイスする場所がどこであっても、そのレッスン1は「他人に自分を信じてもらうには自分で自分を信じなければならない」というタイトルでも付けたくなる話だ。 それは、コロンバスが偶然にもショー ビジネスに足を踏み入れることになったきっかけのエピソードでもある。 ティーンエイジャーの頃、妹の親友に片思いしていたコロンバスが、無理矢理に用事を見つけて彼女の通うバレエ スクールに顔を出したところ、バレエの先生が「あら、彼ならぴったりだわ」と言う。こうしてクラシック バレエに出会ったコロンバスは、 2 、 3 か月の間にコロラド州デンバーにあるアメリカン・バレエ・シアターの系列学校から奨学金を得て、本格的な訓練を開始することになった。 ミュージカルがその後に続いた。コロンバスは回想する。「高校で、こんなことがありました。あるとき、演劇部の先生が、自分が手がけている舞台のために何かを録音しようとしていました。予定していた生徒が休んだため、先生が私に朗読してくれと言うのです。それはそれはひどいものでした。さんざんでしたよ。ところがこのすばらしい先生は、私を呼び寄せてあたたかい心遣いでこう言うのです。 ” 君ね、君が信じるなら、僕も君のセリフを信じるよ。 ” 」翌年、コロンバスは演劇部に入る。「はまってしまいましたよ。」 ハリウッド ジプシー ジーン・コロンバス学校のレッスン 2 は、「ビジネス界で習ったことは、すべてコーラスで習った」。 20 歳の誕生日を目前にしていたコロンバスは、思い切ってハリウッドに向かう。何年もクラシック バレエを訓練した彼の初仕事は、テレビでチャビー・チェッカーと「ツイスト」を踊ることだった。労働組合の組合員証をもらったコロンバスは、俗に言うハリウッド ジプシーになり、『ブルー・マイアミ』(エルビス・プレスリー主演)や『ファニー・ガール』といった映画に出演した。コロンバスが話の中で決まって言うのは、「コーラス(chorus)」の最後の2文字が「US(私たち)」であることだ。「それこそ、私たちが協力して作業することに他なりません。私たちの業界では、脚本家を除き、自分ひとりで仕事ができる人はいません。誰もが、全プロセスのいずれかの段階で主役になる時があるのです。」 また別の話では、舞台がカリフォルニア州バーバンクにあるウォルト・ディズニー・プロダクションズに移り、聞き手は、ショービジネスでも人生でも同じことだが、映画スターの代役を務める売れない若手俳優であっても、人間は平等に大切なのだと教えられる。コロンバスは「私がここに立っていますよね、スポットライトが当たって、汗が出てくる。"静かに ” という声がして、次の瞬間には全員がコーヒーを取りにその場を離れて行くんです」と話す。彼が映画俳優組合の資格を得るためにディズニー製作の『ツツぬけですピタリ一発』でトミー・カークの代役を務めたときのエピソードだ。ところが売店でそれを補ってあまりある出来事が起きる。コロンバスが肩越しに振り向くと、後ろに立っていた男が「初めまして、ウォルト・ディズニーです」と言うのだ。「びっくりしながら、 ” そんなこと誰でも知ってるよ ” と思いました。彼は、私がどこの出身でどんな仕事をしているのかと聞きました。今日の今日まで、自分が何と答えたのか思い出せません。でも慌てて両親に電話で報告したのを覚えていますよ。」 生きていれば今年 103 歳になるウォルト・ディズニーは、 1966 年に亡くなっているため、ディズニーで働く人の中で実際に彼に会ったことがある人はほとんどいない。 コロンバスはこのエピソードを教訓としている。「その朝私が入ってきた門にでかでかと名前が書かれている人なわけですよね、ディズニーは。その彼が、私は自分のことを知らないだろうと思っている。さらにその彼が、私のような、その朝そのスタジオにいる大勢の中で一番下っ端の人間に興味を示す。その事実が、この会社がどんな会社か、ディズニーがどんな人間かを饒舌に物語っていました。私が何としてもこの会社の一員になりたいと思っ | ||||||||||||||||||||||||