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Japanese リアルさの追求 ダグラス・トランブル ( Douglas Trumball ) は、間違いなく歴代最高の特殊効果ディレクターの一人に数えられる。彼が手がけた映画は、『 2001 年宇宙の旅』、『アンドロメダ』、『未知との遭遇』、『ブレード・ランナー』、劇場版『スター・トレック』と名作ぞろいだ。さらに『ブレインストーム』と『サイレント・ランニング』では監督を務めている。その業績を称える数々の受賞として、3回のアカデミー賞ノミネート、ショースキャン カメラの開発に対するアカデミー科学技術賞の受賞、映画界への多大なる貢献を評価した米国映画撮影監督協会会長賞、国際モニター賞の生涯功績賞などが挙げられる。 トランブルは、 1991 年にフロリダのユニバーサル・スタジオに設置された画期的なライド、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」によってアトラクション産業でも名を上げ、 1993 年にはラスベガスのルクサー・ホテルのために「ルクサー・ピラミッドの秘密」を手がけている。新しいエンターテイメント テクノロジーの分野で取得した 20 の特許の中には、初めての運動シミュレーション式ライドの発明も含まれている。 『ファンワールド』は、 63 歳のトランブルをマサチューセッツ州の自宅に訪ね、彼のアトラクション産業との関わりと、没入型エンターテイメントの今後の行方について聞いてみた。 1980 年代後半にパークのアトラクションを手がけるようになったきっかけとは ? 『 2001 年 ( 宇宙の旅 ) 』を作ったとき、 70mm シネラマのワイドスクリーンを使用しました。会話がなく、視覚効果だけが 30 分近く続くシーンがあって、それはまさに私の始めての没入体験でした。ところが複合型映画館の進出によって 70mm の巨大スクリーンは姿を消しつつあり、大画面フィルムで何か作りたいと思ったら、テーマ パークや万博以外に適した場所がなかったのです。私が劇場映画の仕事からテーマ パークに移ったのはそのためです。 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」ライドで画期的だったのはどんな点でしょうか。 まず、アイマックス ドーム式の半球型スクリーンだったこと、そして複数のモーション ベースが 1 つの巨大なスクリーンに向かう、というまったく新しいスタイルだったことです。スクリーンからの角度によって、ライドの車両 1 つ 1 つの動きと視線が微妙に異なります。 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のプロジェクトのどこに刺激されましたか。がっかりする点はありましたか。 3 部作である劇場映画に基づいていましたし、常設のライドだったので、観客がすでにストーリーと登場人物を知っているという利点がありました。全体のコンセプトは、乗客を映画体験に積極的に参加させることでした。 4 分でストーリー全体を展開したわけです。あれは、すばらしいひらめきだったと言えますね。『 2001 年』以来、最高の体験でした。特にがっかりすることはなかったのですが、ただ、映画業界があのライドを映画として認めなかったことだけは残念でした。はねつけるか、無視するかのどちらかでしたね。私にとっては、感情や体感、聴覚といった面で最も強力なスクリーンで映画体験を推し進める大規模で高価な実験でした。半球型の巨大スクリーンでは五感が圧倒されるので、それがとにかくすばらしかったですね。あれは、歴代の中でも究極の没入体験の一つだと思います。 ラスベガスにあるルクサー・ホテルのプロジェクトについて聞かせてください。 ルクサー・ホテルの仕事は完成させることができませんでした。 3 つのアトラクションを作ることになり、その 3 つを結ぶバックストーリーとして「ルクサー・ピラミッドの謎」を作りました。 3 つのアトラクションを三幕のドラマに仕立てるというコンセプトでした。 1 つはシミュレータ型のライド、 1 つはライブのテレビ シアター、 1 つはタイムマシンです。ところが、劇場映画のオリジナルがあったわけでもなく、誰でも知っている作品を利用できるわけでもなかったので、観客は全体を決まった順序で見る必要がありました。その点で、ルクサー側の経営陣を説得するのに苦労しました。 劇場映画の特殊効果で培った経験は、ライドに効果的に応用できましたか。 ええ、とても。シミュレータ型のライドで興味深いのは、見るもの、聴くもの、そして体で感じるものが完全に同時進行しなければならない点です。後にも先にも、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を超えるライドは出ていないと思います。その開発に参加できて本当に光栄です。 フューチャー・ジェネラル・コーポレーションと「ツアー・オブ・ザ・ユニバース」について聞かせてください。 フューチャー・ジェネラルは、パラマウント映画の子会社で、進化したエンターテイメントの形態を追求していました。私たちが1974年にショースキャン フィルムを開発し、最初のシミュレータのプロトタイプを作ったときに協力してくれました。ショースキャンは、もともと、アイマックスの代替物として構想されていました。アイマックスに似た視覚体験を提供しながら、従来の映画館で上映できたからです。ところが、映画館の経営者たちは、ハリウッドの映画がショースキャンで撮影されない限り、ショースキャンには転向しないと言い、映画の製作者たちは、ショースキャンのフィルムを上映できる映画館が数千件ない限り、ショースキャンで映画を作るわけにはいかない、と言うのです。自分の力では映画界の進路を変えられないことに気付き、あきらめることにしたのです。 「ツアー・オブ・ザ・ユニバース」は、カナダの会社のために作った 40 人乗りのカプセル型シミュレータです。スクリーンをカプセルの中に設置する形式でした。 「ミイラの復讐」や「 Italian Job ( ミニミニ大作戦 ): Stunt Track 」など、映画と強く結びついたライドが多く登場している今日の状況をどうお考えですか。 自然な成り行きだと思いますし、現に異業種の結合として大成功を収めています。知的財産権を利用した賢いビジネスでもあります。大きな長所は、入場者がすでに内容と登場人物を知っていることです。ストーリーがなじみのあるものでないと、アトラクションのドラマチックな体験に身を任せることはできませんから。テーマパークのアトラクションは、劇場映画に比べて寿命が長いので、観客動員数が大きいのも特徴です。 ライドの仕事から手を引いたのはなぜですか。 大いに幻滅したからです。最後に手がけた仕事は、日立から依頼されたシミュレータ型ライドでした。超軽量カーボンファイバーを使った 10 乗りのライドで、すべて電磁気で動作するので油圧アクチュエータがなく、半球型のスクリーンに高解像度の複数のビデオ画像が投射される仕掛けでした。残念なことに、あの作品を IAAPA で発表した頃は、ちょうどシミュレータ業界の景気が悪かったので、興味を示す会社が少なかったんです。 パークとアトラクション設計者のために、複雑な特殊効果を多量に投入する分野についてアドバイスするとしたら? 私の経験から言えば、映画界にはその境界線を越えられる人があまりいません。優れた技術を持つ有能な視覚効果デザイナーで、アトラクションをやりたいという人は多いと思いますが、良質な娯楽産業の事情に精通していないと、結果的には良いものができません。私に言わせれば、一にストーリー、二にストーリー、です。「ターミネーター 2: 3D 」 ( ユニバーサル・オーランド ) は、これまでの 4D アトラクションの中でも傑作に数えられます。巨大なワイドスクリーンでの3D映像と、目を見はるコンピュータ グラフィック、それに場内効果を組み合わせてあります。しかし、重要な点は、ストーリーとキャラクターに重点を置いたアトラクションであることです。テーマ パークのアトラクションは、充実したストーリーを持たせないと成功しません。アトラクションで生の俳優を使うことができたら、それだけで強力な原動力となります。(「ターミネーター2: 3D」については、『ファンワールド』9月号の「別次元」を参照。) 興味をそそられる新しいアトラクションはありますか。 外部者として観察していますが、画期的に新しいものはまだ見たことがないですね。ライブ インタラクティブ型のキャラクター アニメーションが持つ可能性は評価しています。こういうテクノロジーは、面白みがありますが、一対一の体験に終始してしまう傾向があり、大規模な観客動員数が求められるテーマ パークのような環境には応用しにくいのが短所ですね。 現在手がけている作品で、将来、ライドとして登場しそうな作品はありますか。 私が生涯にわたって取り組んでいるのは、一人称体験です。普通の映画やテレビ番組は、三人称の体験ですよね。観客は、スクリーン上のドラマには参加せず、傍観しているだけです。没入経験というコンセプトは、私の人生における最大のテーマとなり、傍観者から参加者への移行について考えをめぐらしています。今、そのお話をするのは少しためらわれますが、最近、仮想網膜ディスプレイに基づいて開発した新しいテクノロジーで特許を受けたところなのです。これは、走査型レーザー光線を使って画像を目の網膜に直接投射するというかなり画期的な技術です。近い将来、こういったテクノロジーは、エンターテイメントの一形態として大きく成長するだろうと思います。 新しいライドのテクノロジーや視覚効果の中に、注目しているものはありますか。 時代は、高級なホーム シアターと映画館での体験に大きな差がなくなるところまで到達しつつあります。しかし、テーマ パークが、自宅や映画館で楽しめる娯楽とは大きく異なるものを提供できれば、引き続き成功を収められるでしょう。 4D のアトラクションにあれほどの説得力があるのはそのためです。画像を目の網膜に直接映すことがどれほどのインパクトを与えるかわかりませんが、映画のスクリーンを頭の中に入れられれば、現実と区別の付かない 3D が作れる唯一の手段になると思います。現実と同じようにくっきり、はっきりした、カラフルな画像であり、おそらくテーマ パークでも大いに利用できるでしょう。この究極の体験が、今取り組んでいるプロジェクトです。長年にわたって仕事をしてきましたが、このテクノロジーこそが究極だと思っています。今後3年から5年の間に大きな飛躍を遂げるでしょう。 どうやら、視覚効果自体より、効果の裏側にあるテクノロジーの方に興味が移ったようですね。 いえ、そういうわけでもありません。私が取り組んでいることは、まあ、これはあまり多くの人に理解してもらえないのですが、私が関心を持っているのは手段としてのテクノロジーです。仮想網膜ディスプレイにしろ、 3D 、あるいは仮想セットにしろ、すべて、強力な没入体験型映画を作る上で役に立つ技術です。つまり道具に過ぎないわけですが、存在しない道具は自分で作るしかありません。だからこそ、大量のエネルギーを投じて、驚くべき体験を実現させてくれるような道具を作っているわけです。私は、 35mm の映画やテレビ番組のようなありふれたことだけをやっていても、落ち着かないし、やりがいが感じられません。限界に挑戦するのが好きなんですね。 似たもの同士 世界のどこでも、遊園地にやって来た子供たちの心に は 、同じ考えが浮かんでいるに違いない。「ここに住めたらどんなに素敵だろう・・・」 オイローパ・パークの共同経営者 / 代表取締役、ローランド・マック ( Roland Mack ) の息子で、伝説的なマック一族の娯楽事業 を継ぐことになる ミヒャエルとトーマスにとって、それはごく普通の日常に過ぎない。仲の良い二人が、パーク内の道でサッカーボールを蹴っていたり、ショー用のアイススケート リンクでホッケーをしていたりするのは、あたりまえの光景だった。 「まったく満足していました」とミヒャエルは言う。「僕らにとってはメルヘンの世界ですよ。」 「最大の遊び場でしたね。特に、パークが閉鎖されていた冬は」とローランドが言葉を挟むと、二人の息子は笑い声を上げた。 が、 20 代半ばとなった二人は、もう子供ではない。 ドイツ最大のテーマ パークが 30 周年を迎えた今、二人の世代が、 225 年に及ぶ歴史を継いで新時代の幕を開けようとしている。 馬車からコースターへ 娯楽産業に従事するマック家の歴史は、 18 世紀にまでさかのぼる。1780年、パウル・マック(Paul Mack)がドイツのヴァルトキルヒに初めて馬車と駅馬車の建設施設を設立。100年後、マック家は、最初の娯楽関連製品である移動オルガン、続いて移動芸人やサーカス用のキャラバンを製造するようになる。 1915 年までには、カーニバル用の回転木馬、 1921 年には初の木製ローラーコースターを製造し、 1950 年代にはフランツ・マック ( ローランドの父 ) が米国市場への進出を考えるに至った。フランツは、以来 20 年にわたって米国中のテーマ パークを視察して回り、調査を行い、クライアントを訪問して会社の顧客範囲を広げた。それと並行して、一家の歴史を一転させるアイデアを温めた。それがオイローパ・パークだ。 1970 年代初め、フランツは、ローランドを連れて米国に渡り、 2 週間にわたる娯楽施設ツアーを敢行する。昼はパークを見学し、夜はレストランで静かな席を探し、メモを交換し合った。ローランドの話を聞きながら、父のフランツは、ドイツのルストという町に遊園地をオープンする計画を練った。ルストは、マック家の工場があるヴァルトキルヒにも近い上、フランスやスイスからも来やすい位置にあった。その遊園地には、観光地としての役目と、(初の常設アトラクションを通じて)マック家の製品ラインを披露するという2つの役目を持たせることになる。 二人が米国での視察旅行から戻った時、「パークはすでに頭の中で完成していました」とローランドが回想する。父と息子が実際に見せられる物は、アイデアや図面を書きなぐったナプキンしかなかったが・・・。パークは、ヨーロッパの魅力を一堂に集めたものとして構想された。今日、オイローパ・パークは、スペイン、イタリア、英国、ギリシャなど、大陸全土の各国をテーマとした12のエリアを擁している。どの「国」にもその国独特の建築物や植物、食事、娯楽が用意されている。 「皆、とても懐疑的でしたよ」とローランドは言う。 明らかに、皆の予想が外れたわけだ。 2005 年 7 月 12 日に 30 周年記念を迎えたオイローパ・パークは、業界でも最大の成功を収めているパークの一つであり、その年間入場者数は 400 万人近い。『フォーブズ』誌 2005 年 5 月号に掲載されたパークの世界ランキングでは、オイローパ・パークがトップ 10 に入り、イギリスのアルトン・タワーズ、カリフォルニアのディズニーランド、スウェーデンのリセベリなどと肩を並べている。約 69 ヘクタールに及ぶ敷地に 100 以上のアトラクションが設置され、 Bolliger & Mabillard 製の「シルバー・スター」 ( 70 メートルを超える欧州最大のコースターで、パーク内にある数少ないマック社製以外のライドの一つ ) や今年オープンしたマック社製ウォーター コースター「アトランティカ・スーパー・スプラッシュ」などがある。外食企業としてもドイツ最大となったオイローパ・パークは、2004年に3つ目のホテルとして美しいローマ様式の「コロッセオ」をオープンし、4,100を超えるベッド数でドイツ一のホテル密度を誇っている。 すべては家族で 何がこのような成功の鍵を握っているのだろうか。マック家の人々によれば、それは家族、ということだ。 オイローパ・パークは、 56 歳のローランドが弟のユルゲン・マックと共同で経営している。ローランドは、家族経営の企業であることがパークの長所の一つだと考えている。「意思決定まで最短距離にあるからです」と彼は言う。「何かアイデアが浮かんだとき、家族の中で何人かに意見を聞くだけで決断ができます。もちろん、資金調達と生産を手配することが条件ですが、決定に時間がかからないのは大きな利点です。」 ローランドによれば、家族企業という形態は、そのほとんどが家族連れだという来場者にとっても魅力だと言う。「アトラクションの舞台裏にいるのが家族だとわかると、安心できますからね。心をつかむことができます。会社自体がパークで仕事をしています。パークにいれば、人ごみの真っただ中に身を置くことができます。オフィスにこもらずに、外に出て来場者の中に入っていくことが大切です。来場者に話しかけて、今後、どんなものを期待しているかを聞き出すのです。」 ローランドは、自分の言葉に忠実だ。ゴルフ用カートに乗ってオイローパ・パークの中を動き回るローランドは、ランダムにあちらこちらのライドに乗り込むことで知られている。ウォルト・ディズニーに倣い、パーク中を歩いて来客と接触する彼は、よくサインを求められて立ち止まっている。彼がオイローパ・パークの表の顔であり、ユルゲンは、舞台裏で人事や財務管理などを担当している。 しかしオイローパ・パークほどの大規模な会社を家族で経営することには、犠牲も伴う。中でも大きな犠牲は、プライバシー、そして家族と過ごす時間だ。 「これが私たちの生活ですから」とローランドは言う。「仕事と余暇の切り替えがないんです。私たちは、パークに住んでパークで仕事をしています。自宅にいるときは、片足を仕事に突っ込んだままで、オフィスにいるときは、片足を自宅に突っ込んでいるのです。家にいるときと仕事をしているときの区別がありませんが、これは、パークとパークの従業員たちにとって強力なサポートだと思います。自分では、ずっと家にいると思っているのに、妻は、私がずっと仕事をしていると思っているんです」と言って笑った。 ローランドの息子たちによれば、オイローパ・パークでの子供時代は、経験全体を考えればそれだけの犠牲を払う価値があったと言い、ローランドは、子供たちが長所と短所を量りにかけることができたと言う。「もっと父親にそばにいて欲しいと思ったこともあるかも知れません。でも、私の仕事に対して敬意を払っていましたし、私を訪ねることもできたのですから。子供が父親のオフィスに遊びに行けるなんて、滅多にないことでしょう。仕事中の父親とローラーコースターに乗れるなんて、そうそうありませんよ。仕事だか遊びだか、わかりませんよね。私は両方だと思っていますが。」 が、ブレーキが利かないわけではない。一家、つまりローランドの妻マリアンネと 16 歳の娘アン・カトリンを含む 5 人は、折々にイタリアやスイスに出かけて数日を共に過ごし、休暇が終わるとそれぞれが次の再会まで自分の仕事に没頭する。 「一緒にいるときの時間が、ずっと充実したものになりました」と 24 歳のトーマスは言う。 次の番 ローランドは、息子たちが幼い頃から、オイローパ・パークの経営者になるための躾をしてきた。ミヒャエルとトーマスは、子供ながらに給仕係や、着ぐるみでキャラクターに扮装する係など、いろいろな雑務をこなした。 10 代になると、 1 か月間の修行を行うために世界各国の遊園地に送られた。こうして二人の息子は、オーストラリアのワーナー・ブラザーズ・ムービー・ワールドからバージニア州ウィリアムズバーグのブッシュ・ガーデンズ、さらにはフランスやイギリスの小規模な遊園地まで、さまざまなパークで貴重な経験を積んだ。 27 歳になるミヒャエルは、昨年、大学で国際経営学の学位を取得し、リセベリで数か月働いた後、今秋、正式にオイローパ・パークの正社員となった。ミュンヘンにいるトーマスは、大学での勉強も終わりつつあり、 2006 年の秋にオイローパ・パークの正社員になる見込みだ。 ローランドは、息子の成長を注意深く見守る過程で、遊園地の経営管理においてそれぞれの興味がどの辺にあるかを探った。そこで気付いたのは、ミヒャエルが、父親に似て、パークの日常業務に興味を持っていること。「客にとても近いところにいるんです」とローランドはミヒャエルについて言う。一方のトーマスは、以前から、オイローパ・パークのホテルやサービス業の方に注目しているようだ。 二人の息子がそれぞれに異なる興味を持っているのは、タイミングとしては完璧だ。オイローパ・パークは、過去 30 年にわたって拡大を続けてきた。特にサービス面での成長が目覚しく、ローランドの業務は、一人では手に負えないほどの規模になっている。そこで彼は、息子たちの準備が整った時点で業務を分割しようと考えている。今の構想どおりに、ミヒャエルには運営、トーマスにはホテルの管理を任せるつもりだ。 マック家の息子たちを待ち構える課題は、父親のそれとは大きく異なるものとなるだろう。ミヒャエルが言うには、祖父は、自分がテーマ パークよりも家業の製造面に向いていたから、若いローランドにブランドの確立を任せたらしい。ローランドが仕事を始めた頃、皆が注目していたのは、遊園地をオープンして機能させるだけの手腕があるかどうかだった。今では、誰もがオイローパ・パークを遊園地の中のスタンダードとして見ているため、息子たちはその名声に着いていかなければならない。 成長の余地がないという意味ではない。ここ 3 年の間に、オイローパ・パークは、今後の開発に向けて 120 ヘクタールに及ぶ隣接地を購入している。息子たちが大きな夢を描けるだけの余地は十分にある。「成長のための大きなチャンスを与えてきました」とローランドは言う。息子たちも、ゼロからスタートして前進すればいいのです。」 しかし、オイローパ・パークの経営業務を具体的にどのように引き継ぐかについては、まだあまり考えていないそうだ。「最初の1、2年、様子を見なければなりません」とローランドは言う。「私は新卒の 24 歳で会社に入りました。父がずっと監督しながら、毎年毎年、私の責任範囲をどんどん広げていきました。」明確なスケジュールに従って CEO が頻繁に交代する従来の企業構造に比べると、家族企業であるオイローパ・パークは、ずっと自然だ。ミヒャエルは、それがオイローパ・パークの長所の一つだと考えている。家族企業では、スムーズな引継ぎが可能であり、自分なりのカラーを出すよりも、継続性と特徴の維持に重点が置かれると言う。確かに、ローランドとその父フランツのときも、フランツが徐々に身を引いていき、最後には、ローランドに要求を言いつける代わりに提案をするだけになった。ローランドも、今後は同じような方法で息子たちに会社での役割を与え、自分と弟のユルゲンとの共同作業、そしていずれはユルゲンの息子フレデリック ( 10 歳 ) との共同作業にも慣れさせようと考えている。 「息子たちは、強い責任感を持って課題を受け止めていくでしょう。同時に、私が責任を手放さなければ、うまく行くはずがありません。これは私にとって新しいプロセスです。責任を与える相手を、全面的に信頼しなければなりません。最大の課題は、これまで自分でつかんできたチャンスを、次の世代に譲ることです。 楽しみですね」と彼は言う。「仕事は楽しいし、一生、関わり続けていくでしょう。でも、自分の責任を少しずつ手放して、年を取るにつれて自分と妻の時間が増えていくのです。」 ローランドの息子たちは、次の一歩を踏み出す準備はできているが、それが長い困難なプロセスであることも承知だと言う。 「僕と弟にとっては、家業を継がない手はありません」とトーマスは言う。「僕らは、パークで生活しているわけですし、パークが好きですから。」 「僕は、父をヨーロッパのウォルト・ディズニーだと思っています。並ぶような人物は二度と出てこないでしょう」とミヒャエルが言う。「(僕とトーマスにとって)一番大事なのは、互いに忠実であること、尊敬しあうことです。僕らは絆が固いので、それを維持していければ、何でも成功すると思います。もちろん、道のりは長いですし、若くしてビジネスに入ると、目の前にさまざまな難題が待ち受けているに違いありません。父がいて見張ってくれるのは助かりますよ。まずは、手腕を見せなければいけませんね。」 兄と弟 テーマ パーク業界で世界最大の家族経営会社を築く秘訣を聞いたら、ハーシェンド兄弟は、持ち前の謙虚さで答えるだろう。「運が良かったのだと思います」とジャックは言う。「ちょうどいい時にちょうどいい場所にいた、ということでしょう。」ピーターも口を揃える。「私たち一家は、恵まれています。幸運な偶然の結果であって、別に天才が集まっているわけではないんです。」 しかし、ハーシェンド家に何か長けているところがあるのは間違いない。今日、ハーシェンド・ファミリー・エンターテイメント ( Herschend Family Entertainment ) は、テーマ パーク 4 軒とウォーター パーク 5 軒を含め、 10 州に自己所有、自己経営あるいは共同経営の施設を 24 軒持っている。年間入場者数は、 1 千万人を超える。 その企業に、業界が注目しているのも無理はない。 1998 年、ミズーリ州ブランソンにある同社の最初の施設、シルバー・ダラー・シティがアプローズ賞を受賞し、 2001 年には、テーマ パーク業界における同社の優れた業績に対しテーマ パーク協会からテア賞を贈られた。ごく最近では、ハーシェンド兄弟が IAAPA 殿堂入りを果たしたが、本人たちは、過去 50 年以上にわたって会社に協力してきた 15 万人全員が評価されたと考えている。 最初のパーク ハーシェンド・ファミリー・エンターテイメントの始まりは、全国的にビジネスを展開している現在の姿からは想像しにくいほど、ささやかなものだった。自然をこよなく愛するヒューゴー & メアリー・ハーシェンドは、ミズーリ州南西部にあるオザーク山地にほれ込んでいた。 1940 年後半、二人は、シカゴ郊外 ( ヒューゴーはエレクトロラックス社の支店長だった ) にある自宅から、たびたびオザーク山地に出かけては自然を探索した。そうする間にミリアム・リンチとジュヌビエーブ・リンチ姉妹と友情を結ぶようになったが、姉妹は、当時、地元で人気のある1894年開設のマーベル・ケイブという観光洞窟を所有・経営していた。 ピーターが「必要性と願望の幸運な出会い」と称するとおり、姉妹は、この洞窟の後継者を探しており、ヒューゴーは、退職後の事業を探しているところだった。 1950 年 4 月、一家は、正式にマーベル・ケイブの運営を引き継いだ。最初の年、入場料 1 ドル 25 セントの洞窟の入場者数は、 5 千人だった。「それでは退職できませんよ」とピーターが言う。その結果、ヒューゴーはエレクトロラックスに残り、メアリーが夏の間、洞窟の経営を担当した。 電気と場内の配管設備が届いたばかりで、電話もまだない状態だったが、一家は事業の確立に精を出した。洞窟内に電気コードを取り付け、劣化の進んでいた床板をセメントに換えたが、それは、 40 キロのセメント袋を引きずり、洞窟の地面に手作業で敷いていく大変な作業だった。が、市場価値は高まった。 不幸なことに、ヒューゴーは 1955 年に 55 歳で亡くなる。メアリー、ジャック、ピーターの3人は、それにもめげず、ブランソンに移住してマーベル・ケイブの仕事に全力を捧げた。 1959 年までには、入場料 2 ドル 50 セントで 8 万人が訪れるようになり、彼らの事業を一転させるいくつかの要因が発生した。 1958 年、近隣にテーブル・ロック・レイクができ、行楽地としてのオザーク山地の人気が高まった。同時に、ハーシェンド家の3人は、遠い昔、マーベル・ケイブの近くにマルマロスという町があったことを知る。入場者数が増え、地域も観光地としてにぎわうようになったため、一家は、洞窟ツアーに参加する観光客に新しい娯楽を提供することを決定した。 1959 年のシーズンが終わると、マルマロスへのオマージュとして、 1880 年代のオザーク山地の村を再現した施設の建設に着手。 110 年の歴史を誇る丸太の教会と農家を敷地に移転させ、鍛冶屋、雑貨屋、アイスクリーム屋などの建物を増築し、駅馬車や傾斜ハウスも用意した。大きな課題は、施設に合った名前を見つけることだった。一家のために宣伝を担当していたドン・リチャードソン( Don Richardson ) は、町の通貨として銀貨を配り、町を「シルバー・ダラー・シティ」と名付けるアイデアを提案。これは、他に類のない最も効果的なマーケティング方法の 1 つとなった。 3 万 5 千ドルを投じた施設は、すぐにマーベル・ケイブの人気を追い抜き、最初のシーズンだけで 12 万 5 千人の入場者を記録するに至った。 毛色の違う馬 シルバー・ダラー・シティは、最初から他のテーマ パークとは趣を異にしていた。ハーシェンド一家は、オザーク山地の歴史や背景を紹介することに情熱を傾けたのだ。ピーターとジャックは、自分たちの事業は娯楽であって、テーマ パークではないと強調する。ライドは、大きな娯楽パッケージのほんの一部に過ぎない。地域全土から集められた職人たちが、それぞれの職人技を披露し、パーク全体でライブ エンターテイメントが催される。 ライド中心のパークと違い、ハーシェンド家は、シーズンを通して提供される特別イベントをテーマ パークの中心と考えている。最初の特別イベントである「工芸フェスティバル」 ( 現在は、「アメリカ音楽 & 工芸フェスティバル」 ) は、シーズン終わりの入場者数を増やす目的で 1963 年に始まった。現在、シルバー・ダラー・シティでは、5つのフェスティバルが年の節目を飾っている。 11 月から 12 月にかけて開かれる「オールド・タイム・クリスマス」には、通常、動員数がピークとなる夏の 7 月よりも多くの人が訪れるほどだ。今年は、 5 月下旬から 6 月上旬の動員数を上げるために新しく「ブルークラス & BBQ フェスティバル」が導入されたが、その結果、 2 週間の入場者数が 4 万 4 千人も増加した。他にも、「ワールド・フェスティバル」、「全国子どもフェスティバル」がある。「リピーターの客が増えるし、早く行かなきゃという気を起こさせるのです」と、ジャックは、フェスティバルのおかげでシーズン・パスの販売数が増える理由を説明する。 また、特別イベントは、入場客の要求に見られる変化に対応する上でも役立ってきた。ピーターは言う。「業界は、どんどんライド中心になっています。でも、私たちは、ライド中心になるわけにはいきません。」ジャックも、工芸ショーが全国的に増えて珍しくなくなった状況を、イベントが埋め合わせていると言う。「もともとは職人が売り物でしたが、他のアトラクションを提供できるよう発展する必要があったのです。」 長年にわたって共同で仕事をしているハーシェンド兄弟は、互いの長所が見事に補い合っている。ディテール志向のジャックは、運営と開発の責任者だ。より外向的な性格のピーターには、マーケティングが向いている。「お互いにうまくやっていけるようにできているのです」とピーターは言う。 それでも二人は、株式会社の設立を決意し、外部者で構成された理事会から戦略上の支援を得ることにした。「非常にうまく行っています」とジャックは言う。ピーターも「これまでの決断の中でも最高のもの」と称する。 最初から、理事の選任には問題がなかった。「ビジネスに成功した人々というのは、お返しをしたいと考えているものです」とジャックは言う。「自分の知識や能力を分け与える機会を欲しているのです。」 テーマ パークのユニークな位置づけは、二人が綿密に築いた企業風土の一要素に過ぎない。同社のモットーは、「繰り返したくなる思い出を作り出すこと」。ジャックは、モットーを達成する上で、家族の絆を生かすことの重要性を強調する。「お母さんやお父さんが“今日のヒーロー”になれば、こっちのものです。」これは、会社で働く人全員が念頭に置いて初めて実現される。ピーターは言う。「入場者は、健全で安全で快適な雰囲気を期待してやって来ます。伝説的に有名な会社は、みな、客への配慮を大切にしている会社です。」 企業風土を新しくオープンした施設に浸透させることは、企業の規模が大きくなるにつれて難しい課題となってきた。ハーシェンド家が多数の施設を経営するようになったのは、 1970 年代の石油禁輸をきっかけとした防衛的措置だった。ブランソンは、孤立した地域にあったため、特に打撃を受けやすいと思われたのだ。最初の一歩として、 1976 年、テネシー州グレートスモーキー山脈の真ん中にあるテーマ パーク、ゴールド・ラッシュ・ジャンクションを取得。人口統計がブランソンと似ている上、人口密度が高いことから、 100 万ドルを投じてでもシルバー・ダラー・シティに建て直す価値があると考えたのだ。 新しい合弁事業 全国にウォーターパークが登場していた 1970 年代後半、ハーシェンド家は、ウォーターパーク業界への進出を理事会に提案した。理事会は、最初は提案を却下したが、後に改善案が承認され、 1980 年、ブランソンに初のホワイト・ウォーター・パークをオープンする。それに続いた4つの大型パークは、まもなく売却された。 賢い決断の一つに、ドリー・パートンの協力を得てテネシー・テーマパークを変身させた「ドリーウッド」のオープンがある。ドリー・パートンは、以前から、幼少を過ごした町の近くにテーマ パークを開きたいと語っていた。ハーシェンド兄弟は、1年をかけて彼女の信頼を得、協力関係を築いた。パークがドリーウッドになってから1年の間に、75万人だった入場者数が150万人にまで倍増し、今ではテネシー州で最も人気のあるアトラクションとなっている。この提携事業は、ドリーウッド・コーポレーションと呼ばれる合同会社を通じて行われ、リゾート地にあるディキシー・スタンピードというディナー シアター4軒、ドリーウッドに隣接するウォーターパークのドリーズ・スプラッシュ・カントリーも経営している。「業界で一番うまくいっている提携関係だと思います」とピーターは言う。「ドリーは、頭が良くてクリエイティブな人です。」 ハーシェンド家の会社は、過去 15 年にわたり、目覚しい成長を遂げてき{ | |||||||||||||||||||||||||