FUNWORLD MAGZINE

French

German

Spanish

Japanese

Chinese
June 2005
FUNWORLD Home

 

Japanese

グリーン鑑賞
マディソン子供博物館のブレンダ・ベーカーとジョン・ロビンソン、一人一人の子供からより健康な世界を目指す。 文 ジェレミー・スクールフィールド

言ってみれば極めて当然なことのようにも思える ― 子供のためにデザインされた博物館が、どうして子供の健康を害するような展示を設けるだろうか。

しかしこれこそが、 1997 年にウィスコンシンにあるマディソン子供博物館で小さな子供達のための新しいギャラリー・スペースを開発していたブレンダ・ベーカーとジョン・ロビンソンを悩ませた大きな問題だった。彼ら自身も親として、彼らの仕事には付き物のファイバーガラスとプラスチックに囲まれた環境はできる限り避けたいと考えていた。数か月に及ぶ調査の結果、世界中の子供博物館で一般的に使用されているこうした人口素材が小さな来館者にどんなに有害なものであるかが明らかになった。

「小さな子供達のための美しく教育的な探求の空間をつくるという、信念と熱意を持ってこれまで一生懸命やってきた私達の仕事が、実際にはこんなにも有害な物質を使って行われていたということを初めて理解したときの、深遠な皮肉の瞬間を今でもはっきりと覚えています。」と、子供博物館の展示開発・コミュニティ広報マネージャを勤めるロビンソンは語る。「これはとても大きな衝撃でした。」

この発見はこの 2 人のデザイナーが「 First Feats: Celebrating the Early Years ( 初めての試み : 幼児時代を祝って ) 」を開発するきっかけとなった。1998年にオープンしたこの展示は、現在マディソン子供博物館の目玉となっている。5歳以下の子供に焦点を絞った「First Feats」は、子供にも地球にもやさしい自然素材をほぼ完全に使用した、米国初の「グリーン」な展示である。この展示の成功は、子供博物館協会からの2つの大きな賞の受賞をもたらしたばかりでなく、展示の人気と社会的な認識の高い目標がベーカーとロビンソンをさらに駆り立て、彼らに習ってグリーンな展示の実現を目指すデザイナーのためのWebサイトを設立するまでに至った。 4 月に開設されたサイト www.GreenExhibits.com は、明らかに時代を先取りしたこの展示コンセプトをさらに高めるものとなっている。

決断、また決断

マディソン子供博物館の展示ディレクターを勤めるベーカーは、本人もアーティストとして、大学と大学院で油絵具や塗料薄め液、その他さまざまな有害化学物質を使ってきた。それまで材料の選択をそれほど気に留めていなかった彼女を変えたのは、1995年に自宅に新しいカーペットを敷いたときだった。カーペットを入れてからわずか数日のうちに急性薬品中毒を起こし(数年に渡り有害物質に繰り返し晒されていた後の最後の引き金となった可能性もある)、ベーカーは元の体力を取り戻すのに病院で治療を受けなければならなかったという。この経験がきっかけとなり、彼女は過去にアーティストとして、そして現在は子供博物館の展示開発者・デザイナーとして行ってきた素材の選択に疑問を持つようになった。カーペットや塗料で自分がここまで病気になるとすれば、免疫能がまだ未完成な子供達に及ぼす影響は甚大なのではないだろうか。

数年の後、マディソン子供博物館の幼児時代の展示を変革するという決定が下された。ベーカーとロビンソンは以前の展示を元々好んでいなかったという。登るもの、すべってくぐるもの、ボールのつまった遊び場など、ありがちな遊具ばかりの空間は、彼らのテイストからすればあまりにもありふれていた。新しい展示のための調査の中で、 2 人は他の子供博物館を訪れ、他の施設が子供の来訪者の関心を得るためにどんな策をとっているのかを見学した。しかし、そこで見たものも彼らを感心させることはなかった。

「ようするに、私達が見てきたものは、子供達の能力に対する尊重を欠いた空間だったのです。子供達が反応する空間はもっと洗練されたものであってもおかしくないはずです。 ... 多かれ少なかれ、原色を使った、汚れをモップでふき取り易い滑らかなつるつるの表面、といったものばかりでした。」とロビンソンは振り返る。「子供達は美しい、芸術的な空間を楽しむことができる、すばらしい能力を持っているということが私達には分かっていました。私達が言いたかったのは、子供だというだけで赤、黄、青に押し込める必要はない、ということだったのです。」

同時に、ベーカーは自らの体験をきっかけに屋内の空気汚染とそれが持つ子供および大人への影響についても調査した。その結果、いくつかの憂慮すべき事実が判明した。彼女の調査によると、現代の子供は生活時間の90パーセントを屋内で、ファイバーガラス、合板、カーペット、ラテックス塗料、プラスチックなどの「オフガス」有害物質に囲まれて過ごしているというのだ。ベーカーによれば、こうした物質に囲まれた状態では、子供は特に喘息などの呼吸器系の疾患をはじめとする、長期的な健康上の問題に晒されているのだという。

そこで、ベーカーとロビンソンは、新しい展示は抽象的な傾向のものにし、子供達が自然界との触れ合いを取り戻すために役立つ内容のものにしようと決断した。大まかなテーマを決めてしまうのではなく、範囲を決定しない空間にし、隠されたテーマを子供達が自分で探求できるよう配慮する。昔からよく言われているように、子供はおもちゃ自体よりも、むしろおもちゃが入っていた箱と遊びたがるものだ。しかもマディソン子供博物館では、その箱を子供が安全に遊べる材質にすることを目指した。

そして、こうした目標を満たすためにデザイナー達は決断した。「グリーン志向」で行こうと。

グリーン志向

「 First Feats 」を設計するにあたり、ベーカーとロビンソンはギャラリー・スペースを制作する上で、従来からの常識から頭を切り替える必要があった。ファイバーガラスとカーペットが子供の発育に有害であるとなれば、子供に安全な建築素材を見つけなれればならない。医師やグリーン・スペースの制作に 30 年の経験を持つベテラン建築家など、地元の専門家の協力を得た後、来館者の衛生を確実にする唯一の方法は、合成製品に含まれる有害なオフガス、つまり揮発性有機化合物を一切放出しない完全天然素材を使用することであるという結論に達した。

「 First Feats 」におけるこうした発想の転換で最も顕著なのは、おそらくモミ材を使った木のフローリングだろう。ロビンソンによれば、子供にはカーペットよりも木のフローリングの方が安全であるということを博物館の理事会に説得することは、最も困難な課題だったという。ただし、これはこの展示空間の数々の革新のうちのほんの一例に過ぎない。「 First Feats 」は全館で唯一の複数階にまたがる展示であり、約 6 フィートの 2 つのプラットフォームが部屋と部屋の間を空中で渡っている。プラットフォームは滑車システムでつながっており、子供達は洗濯物を干すロープのような要領で布を渡し合って遊ぶことができる。

こうしたプラットフォームの下は、大人向けの読書室になっており、大人が静かに子供達を監督したり、子供に本を読んで聞かせたり、「 First Feats 」の背景にあるコンセプトについての資料を読んだりすることができる。その近くには、大きな木綿で覆われた物体があり、四方八方にチューブが伸びている。これはタコではない(デザイナーは固定したイメージを意図していない)が、子供達の想像の中ではそんなイメージが浮かぶことだろう。この「触手」は、それぞれが音や光といった独自の秘密を秘めたチューブなのである。ただし、こうした隠れアイテムについて子供達に伝える表示は一切ない。子供達が自分で発見するためだ。

もう一方のプラットフォームの下には 2 つの部屋がある。 1 つは家を模したもので、子供達は大人のまねをして「食事」を作ったり、赤ちゃん(お人形)の世話をすることを学んだりできる。その隣の部屋はミュージカル室で、子供達が木琴や太鼓を叩いて遊べるようになっている。近くの壁伝いには、フックにスカーフが引っ掛けられている。これらのシンプルな布切れは、「 First Feats 」のコンセプトを最も良く表わしている。これらは、スーパーヒーローのマントから魔法のじゅうたんまで、子供が想像でき得る限りの「何か」として遊べるのだ。

「 First Feats 」には、特に乳幼児向けにデザインされたエリアもあり、ここでは絵画が床に沿って乳幼児の目線の位置に展示されている。このエリアにある木綿のマットの一部には砂が詰められた部分があり、ようやく歩いたり、ハイハイをしたりできるようになったばかりの子供達が、手や足に異なる感触を体験できるよう配慮されている。天井には大きなカラフルなモビールがぶら下がっており、子供達が寝そべっても鑑賞できるようになっている。ロビンソンは、子供達が展示内のどこにいても、何をしていても子供達の心や感覚が刺激されるようにすることを心がけたと語る。木材は自然の色のままに残し、クールでナチュラルなトーンが全体を通して維持されている。スペースは限られていてもできる限り自然光を取り入れるように配慮し、来訪者が外の世界とのつながりを感じられるようになっている。プラットフォームはマクドナルドのジャングルジムのようにではなく、木の上の小屋を模したデザインにした。

「親達がこの空間に足を踏み入れたとたん、肩がスーッとリラックスさせているのが目で見てわかります。」とロビンソンは言う。「親達にとっても心地良い空間なので、子供達の学習体験に一緒に参加しようというオープンな気持ちが湧いてくるようです。」

「ここは博物館の中で最も人気のある空間です。」とベーカーは断言する。「この空間の居心地、外観、空気が、そうさせるのです。」

持続可能性

ある意味で、「 First Feats 」はこの 2 人のデザイナーにとっても不思議の国への冒険となった。子供のための衛生的な空間をつくるといった単純な目標が、まったく新しい建築材の探求へとつながっていった。そしてこうした材質は、「持続可能性」というマディソン子供博物館の新しいコンセプトを生んだ。

持続可能性とは、さまざまな定義または解釈が成される用語だが、総合的な概念としては、「今日利用できる資源が、将来も存在していることを確実にすること」であるとベーカーは定義する。そのためには、社会、経済、そして環境上の問題にバランス良く配慮し、地球とその住民にとって最良の選択をすることが必要だ。理論としては非常に良くできた話だが、実際に実用化し、最後まで貫こうとしてみると、持続可能性とは他に類を見ないチャレンジであることがわかる。

「実現させようとすればするほど、問題の深さに気付かされるのです。」とロビンソンは語る。彼は次のような例を挙げてみせた。持続可能性のある木のフローリングを使用することは、子供にとっても環境にとっても良いことだが、材料をカリフォルニアからウィスコンシンまで輸送しなくてはならないとなると、長距離の運送によるガソリン消費と汚染は、持続可能性の観点からすると、博物館の「グリーン志向」というコンセプトの利点を完全に相殺してしまうのだという。あるいは、材木が植林の行われていない森林から切り出されたものだとすると、これもまたこの調達の総合的な環境上の利益に影響する。(ベーカーによると、半径 500 マイル以内に所在するサプライヤに限定することが基本ルールだという。)同様に、社会的な良心といった観点からすると、労働者が低賃金で長時間に渡って働くことを強いられている第三世界から材料を購入することは、持続可能性に反することになる。

このような理由から、「 First Feats 」を準備するにあたり、ベーカーとロビンソンは常に数歩先を考え、マディソンにおける環境への直接的な影響という枠組みを超えて物事を見つめることを強いられた。条件に合ったサプライヤを探すことは困難だったが、現地の専門家の協力を仰ぎ、そしてただひたすらに信念を曲げないことで、彼らは最終的に理想の材料を見つけることができた。例えば木のフローリングは、取り壊しになったシカゴの古い倉庫から調達した。また、プラットフォームのうちの1つに使用された材木は、地元のアーチストの所有地内で自然に倒木した桜の木を利用したものだ。

持続可能性とは、一部の人には恐ろしい言葉だとベーカーは言う。特に、理事会の椅子に座る者にすれば、この言葉が口にされるたびにキャッシュレジスターの鳴る音が聞こえ、予算が膨れ上がる様子が目の前に見えてくる。しかしベーカーは、これもまた合成からグリーンに切り替えるために超えなければならないハードルの1つにすぎないと語る。天然素材にまつわる欠点は、人口素材よりも高価であるということだ。そしてこれは持続可能性のもう一つの要素、経済的な安定につながってくる。ベーカーとロビンソンによれば、これは単に発想の問題だという。

「最終的には、いかに理事会や地元のコミュニティを説得し、費用を計算する上での発想を転換させるかにかかってきます。」とロビンソンは説明する。再びフローリングの例を用いると、当初の費用はただカーペットを敷くだけの場合より高額になるのは確かだが、木はカーペットよりも長持ちな上に、古くなるほど悪くなるどころか景観は良くなるのだ。それでも、「First Feats」は平方フィート当り$116に抑え、博物館の予算範囲内におさめた(ハイエンドの床なら平方フィーと当り約$160はかかる)。

しかし、これは施設がグリーン化を決断するにあたって費用を気にするべきではないという意味ではない。ベーカーも指摘しているように、グリーン化は、特に構造上の費用を考慮すると経済的には実現不可能な場合もあるという(持続可能な建築材は従来型の材料よりも費用が大幅にかかる)。したがって、グリーンな設備がまったく無しになるくらいなら、一部だけでもグリーンな設備をといった発想も必要だという。

「大事なのは、組織が理想またはゴールとしてこのコンセプトにコミットすること、そして同時に、すべてを一晩のうちに徹底的に作り直すことはあり得ないということを認識することです。何よりも、そうしようという心がけがあることが大事だと思うのです。働きかけなければならないのはそこの部分であり、私達はそれを達成させるためにできることからやっているのです。」とロビンソン。

しかしコミットするという決断を得るのは簡単なことではない。ベーカーによれば、「 First Feats 」が理事会の完全な支持を得られたと実感できたのは、展示が実際に完成した後のことだったという。「間違っていないと解っていたので、とにかく夢中で進むしかありませんでした。」と彼女は当時を振り返る。博物館の役員達が展示を一目見たとたん、問題はすべて解決した。

「全員から認められるためには、上から入って来てもらうしかないのです。でも今はそうなっていると思います。」とベーカーは言う。

アイデアを広めていく

ベーカーとロビンソンがこの春に GreenExhibits.com を立ち上げた理由の一つは、発想を転換させることだった。このサイトは、施設をあらゆるレベルで持続可能にさせることを検討中の展示デザイナーを対象としている。ベーカーとロビンソンは、 10 年近い経験を元に、グリーン化を成し遂げた自分達の経験に賛同を得るだけでなく、同じ分野で働く人々に良い開始点となる貴重なリソースを提供することを目指している。

現在は、 Ford 、 Nike 、 Starbucks を始めとする数々の大手企業が持続可能性に注目しており、ベーカーとロビンソンが 1997 年に調査を始めた頃と比べて、利用できる情報は豊富にあるという。しかし、こうした情報の多くは建設業界の企業を対象としたものであり、博物館・美術館専門のものではない。 GreenExhibits.com では、このような情報の一部を博物館・美術館の分野に置き換え、他の施設が独自に情報やパートナーシップを追求するための参考資料となることを目的としている。

「究極的には、各施設がすべての分野において持続可能性を導入してくれることが目標です。」とベーカーは言う。つまり、建築物、清掃用具、リサイクル、そしてそれ以外のすべてにおいてだ。

完全な状態では、サイトは次のようなセクションで構成されている。

• 展示用に使用できるグリーン素材の写真。

• 世界各国で成功を収めているグリーンな展示および博物館・美術館プロジェクトの写真とケーススタディ。

• 幼児期、教育、博物館・美術館コミュニティにおけるグリーン志向の必要性をまとめた、プロジェクトの背景。

• 地元に密着したイニシアチブを促進させることを意図した、全米各州における持続可能性の取り組み、イニシアチブ、関係者へのリンク。

• グリーン展示デザインに関係する主要な文献のリスト。

• サイトのユーザーから寄せられた、全米各地で行われているグリーン展示デザインのワークショップやプレゼンテーションの告知。

• 博物館・美術館運営のあらゆる側面においてグリーン理念を「組織化」させるために役立つ情報。

• グリーン・デザインの専門家がホストを勤めるチャットルーム。

このようなリソースへの需要は確実にある、とデザイナー達は口を揃える。オープン以来、「 First Feats 」の評判は業界内に広まり、他の博物館・美術館の代表が毎年約 20 名あまりマディソンを訪れ、それぞれの施設で同様の取り組みを達成させるためのアドバイスを求めてくるという。

「実に数多くの博物館から、独自に幼児向けの展示を開設するにあたってジョンとブレンダにアドバイスを求める問い合わせが来ています。」とマディソン子供博物館のエグゼキュティブ・ディレクター、ルース・シェリーは語る。「当館としても誇らしいですね。」

子供博物館協会のエグゼキュティブ・ディレクターを務めるジャネット・ライス・エルマンは、「グリーン志向」現象は「新たなトレンドの始まりである」と指摘する。「トレンドはまだ初期段階にあると思います。資金的にも、時間、そして専門知識としても、これは大きな投資です。環境的に適切な空間を構築することは従来の建築よりも費用がかかります。しかし長期的には、エネルギーの節約といった意味で、施設の利益になるはずです。しかしながら、将来、資本を投じたゴールが目前に迫ってくる頃にどうなっているのかを予測することは困難なことかもしれません。」

世界には子供博物館が 300 箇所以上存在している。つまりマディソンの小さな施設が挑戦し、到達しようとしているオーディエンスは実に莫大な数が存在しているのだ。しかし、いくつかの施設はすでにそれぞれの建築物あるいは展示にグリーン・デザインをすでに導入しているか、あるいは将来的により持続可能なデザインを採用する計画を立てていることをベーカーは知っている。こうした施設は、ボストン、コロラド州デュランゴ、ニューメキシコ州サンタフェ、ニューヨーク州ブルックリン、フロリダ州ネープルズ、ピッツバーグなど、全米各地に広がっている。11月には、ピッツバーグの子供博物館で全米初の「グリーン」な子供博物館がオープンした。新たに大型のウィングが加わり敷地面積が20,000平方フィートから80,000平方フィートに拡大された同博物館は、旧来の構造は維持しながら持続可能性の標準に合わせて改良を加え、増築部分は持続可能性の標準に合わせて建設した。施設は100パーセント再生可能なエネルギー(太陽熱と風力)で運営され、高い割合で再生資源を用い、庭園は非灌漑造園術を採用している。「博物館の拡大と新たな空間の制作にあたり、環境に配慮することが非常に重要だったのです。」と博物館のマーケティング・ディレクター、ビル・シュラゲターは語る。

博物館の変革に必要なのはこのような「基本的な価値観にコミットすること」であると、エルマン言う。そしてこの条件を体現しているのが、マディソン子供博物館なのだ。

「マディソン子供博物館は、グリーン展示と建築デザインの分野における啓発では、リーダー的な役割を果たしています。これはマディソン子供博物館の設備と文化の中核となり、この施設の本領となりました。グリーン・デザインへのコミットメントという面でのマディソンのリーダーシップは、この分野の水準を非常に高めてくれたのです。」とエルマンは結論する。

将来を構築する

マディソン子供博物館は、主にこの 2 人の展示デザイナーの努力の結果、 2004 年には「持続可能性のミッション・ステートメント」を採用するまでに発展した。このミッション・ステートメントでは次のような事柄を掲げている。

• すべてのビジネス意思決定に持続可能性の基本原理を導入する。

• 戦略的な協力を追及する。

• 製品、サービス、材質の設計と開発において、子供達とコミュニティの長期的な衛生に配慮する。

「重要なのはグラデーションです。」とベーカーは解説する。「世界中にとって最良な方法ですべてのことをやろうと思っても無理なんです。私達にはそのためのリソースがないのですから。しかしその方向へステップを踏み出すことは可能です。」

マディソン子供博物館は、今後 3 年間のうちに大きなステップを踏み出そうとしている。同博物館では、総敷地面積を現在の2倍にする増設工事を予定しており、ここでもよりグリーンな設備の実現を目指している。既存の博物館を一新することは困難であり、ギャラリー・スペースの閉鎖を必要とする費用のかかる仕事である。新しい構造は、博物館が可能な限りナチュラルな形になるための、空白の石板となる。

「これからの子供達が大人になっていく中で直面する最大の課題は、私達が現在の生活様式で及ぼしている資源への影響を調和させ、改善させるためのクリエイティブな解決方法を見出すことだと、私は思っています。」とベーカーは言う。

「結果を先送りにするとか、責任を転嫁するということではありません。」とロビンソンが付け加える。「私達が辿ってきた軌跡を認識し、責任を取るということです。『First Feats』のような空間が、こうした意味でインスピレーションを与えてくれることを願っています。」


リプリーのベストセラー
成長を続ける創立87年の企業を見つめる先見者
文 ティム・オブライアン

編集者注記 : Funworld News 編集者ティム・オブライアンは、ボブ・マスターソンとは 15 年来の知人であり、現在はリプリー・エンターテイメントでマスターソンに直属の出版・コミュニケーションズ担当副社長として勤務している。

ボブ・マスターソンが 30 年以上も前にリプリーの神秘に触れて以来、彼が他の仕事に就くことはなかった。 1973 年、マスターソンはベトナム戦争から帰還してサンフランシスコに住居を定め、サンフランシスコ・クロニクル新聞の正面玄関警備員として働き始めた。しかし同時に、もっと良い仕事口を求めて職業斡旋所にも登録!していた。

ある日、斡旋所から美術館の管理に興味はあるかという電話があった。彼の頭には、ピカソ、ワイエス、ダビンチなどが思い浮かんだ。「教えられた住所に行ってみると、それがリプリーズ・ビリーブ・イット・オア・ノット!(リプリーの信じるも信じなくも!)博物館でした。」とマスターソンは当時を振り返る。「ロビーに入っていくと、ドラム缶と大きな蛇口が空中に吊るされたようになっていて、その間を水が流れていました。それを見たとたん、虜になってしまったのです。私は仕事を引き受けることにしました。」

リプリーで働き始めた最初の年のうちに、マスターソンはリーダーとして、そして先見者としての才能を発揮しはじめた。サンフランシスコで 1 年を過ごした後、彼はフロリダ州セントオーガスティンにあるもっと大きな博物館に転属され、ゼネラル・マネージャの業務を学び続けた。その後もテネシー州ガトリンバーグの博物館、そしてサウスカロライナ州マートルビーチへと転々とした後、 1980 年に全リプリー博物館の運営担当副社長に任命された。その後もいくつかの昇進と役職の変更を経て、1989年に社長に就任、現在もその地位に就いている。

今日、リプリー・エンターテイメントは 10 か国に 50 箇所のアトラクションを所有、運営しており、アクティブなライセンス・プログラム、成長を続ける出版プログラム、シンジケート・テレビ番組を所有している。「ビリーブ・イット・オア・ノット ! 」コマ漫画ロバート・リプリーは 1918 年に連載を開始し、現在も 42 か国の約 200 紙で連載を続けている。

事業は順調で成長を続けている、とファンワールド誌に語るマスターソンは、 2004 年は記録的な一年だったと指摘する。収入は 24 パーセント増加し、純益は 18 パーセントの伸びを見せた。リプリー社のアトラクション動員数は 1200 万人を超え、最新刊の「ビリーブ・イット・オア・ノット ! 」ハードカバー本は売上約 75 万部を記録し、ニューヨーク・タイムズのベストセラー・リストで第 5 位にランクされた。リプリー・エンターテイメントの親会社である、カナダに本社を置くジム・パティソン・グループもまた、 2004 年に記録的な利益を上げた。

「当社が一般の傾向に逆行した理由は主に 2 つあります。」とマスターソンは語る。「まず第一に、当社は常に立地条件の重要性を理解していました。最高の立地条件では、景気低迷の時期でも影響が最も少ないものです。第二に、ほぼ90年に渡って市場に存在しているリプリーのトレードマークの力は、これまでと変わりなく ― いやむしろこれまで以上に ― 強力になっています。」

テレビ番組「リプリーズ・ビリーブ・イット・オア・ノット ! 」も、業績に貢献したとマスターソンは指摘する。「当社は現在、 20 か国において 120 の異なる市場に番組を販売しています。これらの市場の一部では、毎週10回も番組が放送されているところもあるのです。リプリーのブランド力は強く、知名度も非常に高いので、すべての分野で相乗効果が得られています。」

ブランチ開拓

2004 年に、リプリー・エンターテイメントは新プロジェクトに 2 億カナダドル(約 1 億 6100 万 US ドル)を投じ、エンターテイメント業界の新しい分野に思い切って進出を果たした。リプリー社はナイアガラのグレート・ワールプールのカナダ側に位置するナイアガラ・リバー・ゴージに 25 エーカーもの土地を購入し、グレート・ウルフ・ロッジのフランチャイズ第一号を購入したのだ。リプリーズ・グレート・ウルフ・ロッジは、今日までに存在する同様の施設では最大の規模を持ち、オール・スイートルームで 406 室、 94,000 平方フィート(約 8700 平方メートル)の屋内ウォーターパーク、スパ、レクリエーションエリアを備えている。このリプリーズ・ロッジは2006年中旬のオープンを予定している。

「ウォーターパークは当社の得意分野に適した業界であると見て、数年に渡って市場を観察してきました。」とマスターソンは語る。「ナイアガラ・フォールは巨大な市場であり、リプリーも1950年以来事業を展開しています。現在は、リプリーズ・ビリーブ・イット・オア・ノット!博物館と、リプリーズ・ムービング・シアターというモーションベースのアトラクションを運営しています。また、新たにルイス・タッソー蝋人形館をオープンする準備も進めています。」

ロッジに隣接するのは、同じくリプリーが所有する面積 115,000 平方フィート( 10683 平方メートル)の世界第 3 位の巨大水族館、リプリー水族館カナダだ。リプリー・エンターテイメントが出資、建設、運営を行うこの水族館は、 2007 年にオープンを予定しており、これによってリプリーは世界最大の水族館経営企業の地位を確立させることになる。マスターソンは現在、カナダで他にもグレート・ウルフ・ロッジを建設するロケーションを検討中だというが、今のところは「米国でスタンドアロンのウォーターパーク」を建設する計画を進めているという。

リプリー社が拡張しているもう一つの分野は、ミニチュアゴルフをべースにした家族向けの娯楽センターである。リプリー社は 2 つめのミニチュアゴルフセンター、 54 ホール・リプリーズ・オールドマクドナルド・ファーム・ミニチュアゴルフをオープンしたばかりだ。4000平方フィート(371平方メートル)のスーパー・ファン・ゾーンから成るこの施設は、テネシー州ガトリンバーグにあるリプリー社の6つのアトラクションから数マイル離れたセビアビルに所在する。現在、フロリダ州キスミーにおいて、ウォルトディズニーワールド・リゾートの入口から数分のところに、スーパー・ファン・ゾーンを備えたもう一つのオールドマクドナルド・ファーム・ミニゴルフコースが建設中である。

買収や独自の製品の開発を通じて、リプリーは過去 2 年間のうちに収入と純益の両方を倍増させた。マスターソンは、今後24か月間のうちにさらに収益倍増を見込んでいる。

マスターソンおよび彼が率いるリプリー・エンターテイメントの有能なエグゼクティブが触れるものすべてが黄金に変わるのはなぜだろうか。自らを「アルファ・アニマル」および強力なリーダーと定義するマスターソンは、答えは簡単なことだという。「私は決断を下すことを恐れていません。それが新しい分野に踏み入れる際の原動力となるのです。大きな決定を下すのを恐れる人もいますが、それでは結局会社の成功のきっかけを消してしまうことになるのです。」

マスターソンは、自分の下した決断がすべて上手くいったわけではないと言う。「もちろんですよ」と彼は笑う。「失敗もしました。それでも、常に立ち直ってきました。」アミューズメント・レジャー・ワールドワイドのCEO、ブルース・ダレンは、マスターソンの成功の理由は、彼が「ビジネス界では稀に見る、資金を超えて物事を見ることができる能力と技量を持っている」からだと証言する。

クリエイティブな人間としてのマスターソンの芸術は、画家やミュージシャン、彫刻家のそれとはどれも違う。彼に認められた能力は先見者としての技量だ。彼は物事を見て、その可能性を読むことができるのだ。それに加えて正しい決断を下す能力を併せ持っていれば、物事を達成させる力を持ったクリエイティブな人間ができあがる。「人々は私のアイデアの多くをクレイジーだと言います。でも私は一度何かに信念を持ったら、実現させるまでは進み続けることを止めません。」

時には、自分のアイデアを他者に売り込むことが困難なこともあった。「最初の水族館の承認をもらうまでに私は取締役会に 4 回説得を試みました。グレート・ウルフ・ロッジの時も4回かかりましたよ。」と彼は振り返る。「一度承認を得れば、取締役会は 100 パーセント私を支持してくれました。」

リプリーズ・ビリーブ・イット・オア・ノット ! フランチャイズ 2 箇所の所有者で、 IAAPA 前会長のビル・シムスは、 30 年以上に渡ってアトラクション事業に携わっている。「私のキャリアの中で数多くの人に知り合いましたが、ボブは一緒に仕事をしていて、この人はこの業界を本当によく心得ていると実感した数少ない人間の一人です。」とシムスは評する。「彼はこの業界を真に理解した先見者です。」

基本理念

マスターソンは、彼が開眼するまで、彼の会社は何ができるか、そしてどうやれるかという視点に限界がある企業だったという。「そのとき、私はリプリー・エンターテイメントが本当にやってきたことに改めて気づいたのです。」とマスターソンは言う。「何年もの間、我々は当社の事業とはリプリーズ・ビリーブ・イット・オア・ノット!博物館を所有し、運営することだと思ってきましたが、当社が実際にやってきたことは、家族での楽しいひと時を売るという仕事だったのです。そのことに気がついたとき、まったく新しい事業機会が開けました。この開眼が、当社の成長のきっかけだったのです。当社は人々を楽しませる方法に長けていますし、チケットを売る方法も心得ています。」

単独の製品だけを販売しているのではなく、楽しいひと時を売ることが仕事だということに気づくやいなや、マスターソンは新製品の模索と制作に全力を注いだ。彼が行った最初の大きなブランド拡張は、マートルビーチにリプリーズ水族館をオープンしたことだった。さらに、リプリーズ・ホーンテッド・アドベンチャーズ、リプリーズ・ムービング・シアターズ、リプリー独自のインタラクティブ・ミニチュアゴルフ、セントオーガスティンの観光列車、ルイス・タッソー蝋人形館ブランドのリバイバルなどがこれに続き、現在はロッジングに至っている。

高度にインタラクティブでアニメーション化されたミニゴルフコースは、他に類を見ない娯楽施設だとマスターソンは説明する。「長年に渡ってこの業界を牛耳ってきたアドベンチャーゴルフ・ミニチュアゴルフ・コースからは一線を画するものでした。各ホールがインタラクティブな、家族向けの楽しい内容になっています。」

カナダ第三位の私企業ジム・パティソン・グループの一部門として、リプリー・エンターテイメントが新しいプロジェクトの資金を調達するのに問題はなかった。その代わり、すべての拡張は自己資金によるものだった ― 真実はフィクションよりも強く、奇妙で、興味深いと信じて止まなかった男の名前を名づけられた、この一癖あるエンターテイメント企業には、これも冒険だったことは言うまでもない。

リプリー・エンターテイメントは独自の製品を制作するだけでなく、強力なサードパーティ・ライセンス・プログラムも運営している。「当社は広範に及ぶ著作物のライブラリを保有しており、中にはロバート・リプリーが最初のビリーブ・イット・オア・ノット ! 漫画を描いた 1918 年当時までさかのぼるものもあります。」とマスターソンは指摘する。「一番最近のものでは、リプリーズ・ビリーブ・イット・オア・ノット!ピンボールマシン、スロットマシン、本、ゲーム、カレンダーのライセンス化を行い、パラマウント社と映画化の契約も結んでいます。」

ダレンは、マスターソンがリプリー・エンターテイメントの多角化をここまで成功させた理由として、こう語っている。「ボブは箱の外側を考えることができるのです。そして楽観的な性格の持ち主であり、常に物事を広い視野で捉えています。」

センダンは双葉より芳し

シカゴの南側の家畜置き場の裏に住む、貧しいアイルランド系の家庭に生まれたマスターソンは、必要に迫られて幼年のうちから商才を発揮していた。 8 ~ 9 歳の時、彼はガラの悪いアイルランド系パブや近所のバーに出かけては靴磨きの仕事をした。また同じ頃、肉屋でも働いた。「肉屋では 1 週間の給料が $7 でしたが、靴磨きでは時には一日で $30 稼ぐこともありました。」とマスターソンは語る。「あの頃、実に私は父親より稼ぎが良かったのです。儲けたお金を家に持ち帰っては母に渡していました。父はこの金が私からのものだとは一切知りませんでした。知っていたら、父は私にそんなことをさせたくないと思うはずだからです。」

ティーンエイジャーの頃には、ナビスコのクッキー工場で、次に鉄研磨工場で働いた後、ついに 15 歳の中学 3 年生の時、彼は学校を退学し、ヒッチハイクでフロリダまで移動して海老漁船で働き始めた。17歳でシカゴに戻った彼は、何をすべきかわからなくなった。そんな時、彼の人生を大きく変える出来事が起こった。

シカゴ警察署少年課のチェスター・ジェスコラ刑事が、マスターソンの才能を見込んで諭してくれたのだ。「彼は、貧しいアイルランド人街出身の不良だった私に、軍に入隊してシカゴを出て、新しい人生を始めるようにと助言してくれたのです。それが私を救ってくれました。」

18 歳で陸軍に入隊したマスターソンは、すぐさま人生が大きく変わるのを感じた。彼は 1965 年にベトナムに出征し、歩兵第 25 部隊の二等曹長まで出世を遂げて 1968 年半ばまで勤務した。ベトナム時代にGED(高校卒業資格)を取得した彼は、米国に帰還してすぐに航空学校に入学して後に士官となった。

そして再びベトナムに戻り、 1969 ~ 1971 年までの 3 年間、コブラ・ヘリコプターのパイロットとして従軍した。1972年には民間人として再びベトナムに戻り、公使館付武官の下請け会社の従業員として働いた。戦争に疲れた彼は、 1973 年半ばに帰国し、リプリーで働き始める。1975年に彼は会社から2か月の休暇を取って再びベトナムに戻り、サイゴンが占領され避難命令が出るまでこの地に留まった。戦後アメリカに帰った彼は再びリプリーに復帰し、元の仕事を再開した。

今日、マスターソンはベトナム人の妻ファイの家族を訪ねて定期的にベトナムに帰っている。妻の家族の中には、北ベトナム軍の高官もいる。「今では私達は良き友であり、互いを尊敬しています。それぞれに、相手が経験した苦難を理解し合っているのです。」とマスターソン。

IAAPA に寄せる熱意

マスターソンは現在、 IAAPA の第三副会長を務めており、 2007 年の会長候補者でもある。彼は、この業界のアトラクション側出身者では初の会長となる。

10 か国で小規模および大規模なアトラクションを運営する企業の関係者として、マスターソンは大規模/小規模、国内/国際施設で培った勘と経験の程よいバランスを本協会にもたらしてくれる。「 IAAPA の『 A 』の一つとしては初の代表となることは非常に光栄なことです。」とマスターソンは述べる。「IAAPA において、アトラクション、スモールパーク、FEC のメンバーは重要かつ大きな割合を占めているメンバーシップです。」

IAAPA 役員として、マスターソンはこれまで見過ごされてきた分野の関係者を委員会に迎えるために「積極的に働きかける」ことを目指すという。「これまでは大手パークのトップが委員会で優勢を占めていました。小規模なパークやアトラクションからの代表者も協会には非常に有益な財産となると私は思うのです。」とマスターソン。

また、委員会や理事会におけるアジアの代表者の割合も増やしたいと意欲を見せる。「アジアにおける成長を鑑みても、アジアからのより積極的な参加を募るよう協会としても働きかける必要があります。アジア Expo を開催することで、この点は多いに期待できるでしょう。」とマスターソンは加える。

IAAPA の理事会および委員会でも、リプリーの組織内あるいは外注サービスに対しても、マスターソンは常に最高のクオリティしか受け入れない。そして多くの人とは異なり、彼はでき得る限り完璧に近づけるためなら金にも糸目はつけない。「当社の建築物に認可され得る限り大きな明るい看板を付けるのにも、優良なコンサルタントを雇うのにも、資金を出し惜しみしたことは一切ありません。」と彼は断言する。「ただし、無能なコンサルタントに金を払いすぎたこともありますが。」

シムスは、ボブ・マスターソンは何よりも「品格があり、正直で、気取りのない愉快な人物」だと評する。「彼は人に好かれる人間です。彼のことを好まないまたは尊敬しないという人物もどこかにいるのかもしれませんが、私はそんな人には会ったことがないと断言できますね。」とシムス。次にダレンが付け加える。「彼は一緒に仕事をするのにも楽しい人間です。もちろん、気を抜くことは許されませんがね。」


グランド・ツアー
ゴールド・リーフ・シティとその金鉱産業の歴史に関する知識では、ジェニー・ブリスコウの右に出る者はない。 文 プレストン・マーチャント

摂氏 50 度に達する猛暑の大地のはらわた深く掘られた金鉱トンネルは、大蛇のごとくうねりながら南アフリカ、ヨハネスブルグの下を数千キロに渡って続いている。 3000 メートルの岩は触れることができないほど熱い。 1880 年後半から、男達はこのような労働条件の中、当初はつるはしで、後には空気ドリルを使って労働し、彼らの雇い主に莫大な富を築かせ、この国の経済と社会の歴史を形作ってきた。歴代に採掘されたすべての金のうちの実に 40 パーセントが、南アフリカの金鉱から産出されている。

ヨハネスブルグで金鉱について質問をすれば、まず間違いなくジェニー・ブリスコウに聞けと言われるだろう。彼女は、ゴールド・リーフ・ガイドという、ヨハネスブルグの金鉱産業および市街地観光を専門としたツアーガイドのプロフェッショナル・トレーニングを行うプログラムのディレクターを務めている。彼女に聞けば、あなたの腕を取ってゴールド・リーフ・シティを案内してくれるはずだ。ゴールド・リーフ・シティは、実際の金鉱の真上に築かれた、テーマパーク、カジノ、美術館、ホテル、歴史的村落から成るエンターテイメント・コンプレックスである。

パートタイムの仕事

明るい瞳の快活な、エネルギーと博識にあふれる 58 歳のブリスコウは、親しみやすいおばさんといった印象を与える女性だ。娘が生まれる以前は国際特許・財務関係の仕事に従事していたという彼女は、家計の足しに何かパートタイムでできる仕事を探していたのだという。そんな彼女がフリーランスで開発した公認ツアーガイド養成コースは、後に公式なトレーニング・プログラムへと成長していった。これは非常に実りの多い仕事だと彼女は言う。「一番気に入っているのは、人と触れ合う仕事というところよ」とブリスコウは語る。

ゴールド・リーフ・シティは、ヨハネスブルグの魅力的だが苦難に満ちた歴史の案内役という、ユニークな役割を担っている。 1980 年に、ゴールド・リーフ美術館という、実際の金鉱の真上に位置するテーマーパークとして設立された。ただしこの金鉱は現在は運営されていない。1916年から1976年まで運営されていたクラウン金鉱シャフト第14号は、一時は世界で最も豊富な金鉱として、地表から数百メートル下で働く黒人労働者の手によって、140万キログラムの金を産出していた。南アフリカの金は、リーフと呼ばれる金を含んだ岩石の深い層の中に存在している。労働者は、ダイナマイトで爆破された狭いトンネルの中で、こうした層を採掘するのだ。カートが金を含んだ岩石で一杯になると、レールに乗って地表面まで運ばれ、岩石はそこで砕かれて金が抽出される。

ヨハネスブルグの歴史は金鉱の歴史と切り離して語ることができないため、 19 世紀後半の金鉱村落のレプリカとして金鉱博物館も建てられた。ここでは、金鉱内部の見学を含む歴史ツアーが催されていたが、人々の関心を引くことはあまりなかった。 1986 年、史跡運営を商業的に活性化させるために、歴史的村落をその一部として取り込み、他にスリリングな乗り物や家族向けのエンターテイメントなども提供するゴールド・リーフ・シティ・テーマパークがオープンした。

「ヒストリカル(歴史的)とヒステリカル(興奮)の結婚(融合)といったところです。これが大成功でした。」とブリスコウ。この言葉は彼女が好んで使う表現で、引用されることもしばしばだ。つまり、どんなに魅力的な歴史でも、少しばかりのスリルがなければ、現代の要求の多い複雑な観光市場で生き残ることは不可能である、ということを言っているのだ。

ブリスコウは、彼女のガイドサービスを利用するパークやツアーグループの観光客のために、ガイドを養成し、ツアーを運営するゴールド・リーフ・ガイド・プログラムを開発した。認定を受けるまでの課程は厳しく、ガイド候補生はブリスコウが歴史家、地質学者、建築家、経済学者、金鉱経営者をはじめとする数々の専門家の協力を得て開発した、学際的なカリキュラムを修了しなければならない。生徒は歴史と事実の知識を習得するだけでなく、ツアー産業についての知識とプレゼンテーションのスキルにも長けていることが要求される。マイクを使った技能、ツアー・オペレータとのやり取り、サービス契約の解釈方法などもみっちりとトレーニングされる。南アフリカを訪れるツアーグループに自国の言葉を話すガイドを提供できるよう、ブリスコウは中国語、フランス語、ドイツ語、日本語などさまざまな外国語を操る人材を採用している。

彼女の下では 250 ~ 300 名のフリーランス・ガイドが常に待機している。人材は教師や図書館職員からエンジニア、医師、主婦、会社員と、豊富な経歴を持つ。プログラムは南アフリカの州および国の機関から公認を受けており、修了後も継続したトレーニングやスキル開発カリキュラムが提供されている。

ブリスコウは、ヨハネスブルグについて知識を深めたいというすべての人達への窓口となる人物である。アメリカの大学でアフリカ史の博士号を目指しており、研究のためアフリカに 1 か月ほど滞在しようと考えているなら、ブリスコウに問い合わせればきっとその分野の専門家を紹介してくれるはずだ。ゴールド・リーフ・ガイド・トレーニング・インスティトゥートでも、歴史書やその他の関連資料のアーカイブを保持している。

金鉱ツアー

テーマパークでは、ゴールド・リーフ・ガイドを利用すれば一日の観光を存分に楽しめることは間違いない。特に、シャフト第14号の1階までの220メートルを下降する覚悟ができているならば。ケージ型のエレベータは、巨大なウインチからゆっくりと巻き出される鉄製のケーブルにしっかりと繋がれているが、それでも移動中は誰もがしんと静まり返る。空気はひんやりとしてくる。電信機のような電動のベルの連続した音によって、マインヘッドにいるオペレータに来訪者が到着したことが伝えられる。

マインシャフトはそれだけでは極めて興味深いものとは言えないが、優良なガイドが居れば史実を生き生きと描写してその時代を蘇らせてくれる。壁には、小型のダイナマイトを保管しておくために木箱が取り付けられている。箱の上部は傾斜が付いていて、平面ではなく角度のついた斜面になっているのは、労働者が箱の上に絶対にキャンドルを置いたりすることができないように配慮されているためだ。ズールー語、英語、コーサ語、アフリカーンス語から派生した混合言語であるファナガロ語で書かれた標識は、異なる部族の出身の労働者が互いを理解し合うのに役立った。ツアーの終わりの方で、岩層の上にしゃがんだ金鉱労働者が空気ドリルを稼動させてみせるデモンストレーションが行われる。その騒音は耳をつんざくばかりだ(観光客は耳を塞ぐように指示される)。狭いトンネルの中で、このようなドリルが50機も稼動しているのを想像してみて欲しい。

金鉱ツアーはゴールド・リーフ・シティ・テーマパークの目玉である。金鉱への入口はパークの中央に位置しているが、入場には別料金が必要だ。ヒステリカルとヒストリカルの融合とは言え、来訪者によってはニーズや関心事に応じてどちらか一方または両方を楽しみたいという場合もあるだろうという配慮である。また別料金体系は、リピーターを呼ぶことにもつながっている。

「私達は、ゴールド・リーフ・シティに再びゴールドを復活させようと努めています」とパークのゼネラルマネージャ、スティーブ・クックは言う。「当パークはヨハネスブルグで唯一の金鉱ツアーであり、歴史的な施設は市場の拡大に役立っています。」

もっと良い仕事

ゴールド・リーフ・シティのガイド・プログラムの成功により、ブリスコウはソウェトに焦点を当てた別のプログラムを開発した。かつてネルソン・マンデラ氏とデズモンド・ツツ大司教が住んでいたこの町は、過去に政府による悪名高い弾圧の引き金となった 1976 年の蜂起の発生地である。この後、暴力と抑圧の時代が幕を開け、これが世界の注目を集めることとなり、最終的にはアパルトヘイト制度の廃止へとつながった。

ソウェト・ツアーでは、観光客は経済的な不振の中にあっても起業精神と豊かな文化に溢れたコミュニティの歴史に触れることができる。ブリスコウはソウェトの住民をツアー・ガイドとしてトレーニングし、現地の店主やレストラン経営者に働きかけてプログラムへの参加を呼びかけた。その結果、観光産業による雇用の安定的な成長と地区経済の活性化を実現できた。

「困難な状況にある人達のスキルアップを支援することは、とても満足感のある仕事でした。」とブリスコウは振り返る。「トレーニングによって住民はプロフェッショナルとして働く機会を得ることができ、さらにこうした機会はガイドとしての仕事を終えた後も続くのです。」

ブリスコウの事業モデルはあらゆるところで模倣され、現在では数多くの企業が同様のツアーを提供しているほか、ソウェトはヨハネスブルグの最大の見所の一つとなっている。同時に、ブリスコウが育てたゴールド・リーフ・ガイド達も、成長を続ける南アフリカの観光産業のあらゆる側面で活躍している。「歴史は、経済的な面ではそれ自体では維持できません。歴史を保護し、そして最高の形で見せる方法を見出すことが、何よりも大切なのです。」とブリスコウは言う。多くの結婚がそうであるように、ヒステリカルとヒストリカルの結婚(融合)は、優良なコミュニケーション、尊重、信頼が存在してこそ、はじめて機能するものといえる。ゴールド・リーフ・シティとジェニー・ブリスコウはお互いを満足させ、幸せにしているのだ。

アパルトヘイトに思いを馳せる

ブリスコウのツアー・ガイドの多くは、ゴールド・リーフ・シティのもう一つのプロジェクトにも関与している。それは、社会的な歴史にもあえて踏み込み、南アフリカのアパルトヘイト制度の残忍さを記録に残すというものである。投資家のコンソーシアムを通じて、同様の施設としては世界初のアパルトヘイト博物館が2001年にゴールド・リーフ・シティにオープンした。独立した管財理事会を維持し、別個の非営利団体として運営されているこの博物館は、パークからは道を隔てた独立した立地となっており、マーケティング上も娯楽施設とは切り離されている。

「この歴史はまだ生々しすぎます。」とクックは語る。「アパルトヘイト博物館は特別なツアーです。観光客は他の施設とは切り離して、このツアーを体験することができます。」

この博物館は、テネシー州メンフィスのアメリカ市民権博物館、ポーランドのアウシュビッツ記念館とビルケナウ博物館など、不穏な歴史を展示する他の著名な施設と並ぶものとして、世界的に知られている。他の施設と違っているのは、他者は展示対象とする史実が発生してから何十年も経った後になって設立されたものであるのに対し、アパルトヘイト博物館が開館したのは、この抑圧的な制度が崩壊してからまだたった 7 年しか経っていない時であったという点だ。議論性に満ちたこの博物館では、歴史的な展示品、写真、ビデオ上映、そして黄色の Casspir (黒人住民を鎮圧させるために使用された市街地用装甲車)などが展示されている。しかし、同博物館は暴力と抑圧の時代についての展示だけに留まらず、ネルソン・マンデラ氏の釈放、民主主義の誕生、真実和解委員会の活動についての展示も成されている。

「過去を蘇らせたいかと言えば、答えはノーです。過去はもう過ぎたことです。しかし、南アフリカの若い世代が自分達の歴史を理解し、過去に払われた犠牲について正しい認識を持つことは、非常に大切なことなのです。」とブリスコウは語る。